ホームメッセージ単位制度と学修時間 ――「教養」の来た道(45) 天野雅郎

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単位制度と学修時間 ――「教養」の来た道(45) 天野雅郎

今、温かい珈琲(コーヒー)を啜(すす)りながら、パソコンのキーボードを叩き、ふと僕が口ずさんでいるのは――と、このような歯の浮いた、気障(きざ←きざわり)ったらしい台詞(せりふ)を、一度でも好いから吐いてみたいものだ、と思いつつ......でも、そのような見っともない(=見たくもない)ことを、しでかしてしまったら、もう僕の人生も御仕舞(おしまい=ラスト・ダンス)だな、とも思いつつ、いつものように人差し指一本で、ぎこちなく、僕は実際にパソコンのキーボードを叩きながら、とぎれとぎれの歌を口ずさんでいるのである(^^;)が、今日の歌は、たまたま岡林信康(おかばやし・のぶやす)の『26番目の秋』(山は赤く、赤く色づいて......)であった次第。そして、ぜひとも君に、この「フォークの神様」(!)の歌を覚えてほしいな、とも願っている次第。

 

 このごろ不思議な気分になることがある

とてもゆかいなような そのくせ

淋しいような ねえ どうしてぼくはここにいるの

ねえ どうしてぼくは きみとここにいるの

 

ところで、そもそも君は「学習」という語と「学修」という語が、それぞれ違った語であることを、知っていたであろうか? ――と、突然、このような質問をしても、君は何のことやら訳が分からず、面(めん)くらうばかりであろうけれども、最近、このことが気になって、気になって、僕は仕方がないのである。と言ったのは、例えば君が和歌山大学の、教養科目の授業計画(シラバス)を開いて、そこに「単位制度と学修時間」というページを探し、さらに、そこに次のような、いかにも大学らしい(アカデミック?)堅苦しい文章を見つけたとしよう。「すべての授業科目には単位数が設定されています。単位とは、科目を修得するために必要な学修量(時間)を数で表したものであり、45時間の学修時間を必要とする内容の授業科目に1単位を設定することを標準としています」。

ウ~ン......これだから大学生(例えば、君)は、きっと「シラバス」に目を通さないままでいるんだよな(^^;)と、僕は嘆きつつ――でも、このような読者を無視した、サーヴィス(service)の抜け落ちた文章の中にも、君が知らなくてはならないことや、逆に、知らないと困ってしまうことは書かれているのであって、そのことを率直に、まず君には知っておいて欲しい、とも僕は願っている。それどころか、もっと突き詰めて言うと、君が何かを知らないことで、はなはだ多くの、大きな不利益を蒙ってしまうことに限って、実は、このような不親切な文章が意図的に、世間には出回りがちでもあり、出回る必要もあるのだ、と君は覚悟(?)を決めておいた方が好いのかも知れない。困ったことではあるけれども、どうやら世間(world=世界)とは、そのような場所でもあるらしいから。

ちなみに、いわゆる単位(!)のことを、例えば英語では何と言うのか、君は知っていたであろうか? 答えは、ごく一般的にはunit(すなわち、ユニット)であるけれども、君や僕が現在、大学において「単位」と呼んでいるものを指し示す際にはcredit(すなわち、クレジット)を用いるのが正解である。なお、このような単位は『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の説明文を借りると、そもそも「卒業などの資格を算定するために用いられる学課履修計算の基準」であり、それは「昭和二二年(一九四七)以降の学制下で、高等学校では一学年に三五単位時間の授業を一単位とし、大学では一五時間から三〇時間までの範囲で大学が定める時間の授業を一単位とする」と書かれている。したがって、この語の用例に挙げられているのも、阿川弘之の『春の城』(1952年)であった次第。

ここまで来ると、さっきの「シラバス」の文章も、かなり見通しの利(き)くものとなったのではあるまいか。要するに、和歌山大学では君が、それぞれの授業を通じて修得する単位(「学修量」)を、一律に45時間と決めている訳である。そして、その45時間という「学修時間」と、そこに費やされた(であろう......^^;)労力に対して、君は1単位という、言ってみれば、報酬を得るのが決まりであって、この関係を英語では、文字通りにcredit(信用)と称する訳である。参考までに、このcreditという語が「信用」という意味で使われ出すのは、まず16世紀であり、これが17世紀には銀行用語となり、預金という形で用いられ、さらに18世紀には簿記用語となり、帳簿の右側の貸し方の欄となってから、とうとう「単位」という意味まで手に入れるのは、20世紀の初頭のことである。

とは言っても、これで君が「単位」のことや、その成り立ちを、よく分かってくれたのか、どうか......僕は幾分、不安な気がしないではない。なにしろ、このようにして「学修時間」が一律に、あらゆる授業において45時間と決められてはいても、そこには実は、大きく二つの、授業形態の違いがあり、この点を説明しているのが、以下のシラバスの文章であったから。――「学修時間には、大学の教室等で行われる授業だけでなく、予習・復習等教室外での自主的な学習が含まれます。授業時間と自主学習時間の割合は、授業形態で異なり、本学では次のように定めています」。すなわち、講義の場合には授業時間が15時間で、自主学習時間が30時間であるのに対して、それ以外の授業形態(演習・実験・実習・実技)の場合には、この時間数が基本的に、まったく反対の割合になっている。

基本的に、と言ったのは、演習という授業形態には細かく、さらに二つの区分があり、講義と同様の割合(要するに、授業時間が15時間で、自主学習時間が30時間)の授業も存在しているからである。単純に言えば、演習には大きく、講義に似た形態の演習と、実験や実習や実技に似た形態の演習の、二つの演習がある、と言うことになるであろう。さらに、これまた単純に言えば、いわゆる文系の授業には普通、実験や実習や実技という授業形態は存在していないはずであるから、結果的に和歌山大学において、授業時間が15時間で、自主学習時間が30時間の、合わせて45時間の「学修時間」を設定し、これを1単位として認定しているのは、文系の授業であったことになるであろう。......と、このような説明をしている内に、いささか僕自身が不安になってきたのは、困った話である。

なぜなら、例えば僕が哲学の授業をしていて、それが講義の場合には、授業時間が15時間で、自主学習時間が30時間の授業をしている訳では、さらさら無いし、同様に演習の場合にも、これまた授業時間が15時間で、自主学習時間が30時間の授業をしている訳では、さらさら無いからである。強いて言えば――と言ったのは、このような「学修時間」を能天気(脳天気?)に、学修量に換算しようと思ったり、換算できると思ったりする、そのような短絡ぶりを、幸か不幸か、僕は身に付けていないからに他ならないが、そのような僕に言わせれば、そもそも哲学の講義とは、授業時間が15時間であれば、自主学習時間は0時間、逆に哲学の演習とは、授業時間が15時間であれば、自主学習時間は......ちょっと見当が付かないな、と答えるしかない、何とも困った代物(しろもの)なのである。

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