ホームメッセージ学修時間と修学旅行 ――「教養」の来た道(46) 天野雅郎

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学修時間と修学旅行 ――「教養」の来た道(46) 天野雅郎

前回、たまたま僕は、岡林信康の歌(『26番目の秋』)を口ずさみながら、このブログのページを始めたのであるが、今回も再度、岡林信康の歌を口ずさみながら、とぎれとぎれに、ぎこちなく左手の人差し指一本で(私の 私の彼は 左きき~♪)パソコンのキーボードを叩いている。「緑にぬれている山 紅く燃えてる山 白い眠りにつく山 いろんな色に 姿を変えて生命(いのち)はめぐる......」(『山辺に向いて』)――でも、この歌や、この歌を作った「神様」とは違い、僕自身は『俺(おい)らいちぬけた』(命あるものの流れに沿って 今夜 町を出よう......)と、はるか『自由への長い旅』(自由への長い旅を ひとり 自由への長い旅を 今日も......)を試みることも叶わず、少しだけ、ほんの少しだけ、僕自身の「山辺(やまべ)に向(むか)いて」を実践している次第。

 

いろんな顔を見せてよ

まだ見ぬ俺の

たやすく決めつけないさ

自分の事を

めぐる生命の音が聞こえる

そいつに乗れば

ステキな事だろう......

 

さて、僕は前回の冒頭部分で、はなはだ唐突な質問を君にして、きっと君を、かなり面(めん)くらわせてしまったに違いない。そもそも、僕が君に話を聴いてもらいたかったのは、いわゆる「学習」という語と「学修」という語が、それぞれ違った語である、という点と、その違いについて、はたして君は了解済みであろうか、という点であった。なぜなら、この二つ語が互いに、その意味も成り立ちも違う語である、という点を、普段、君や僕は忘れていたり、蔑(ないがしろ=無きが代)にしていたり、それどころか、まったく知らないでいたり、するのではなかろうか? 事実、この二つの語の違いについて、平生、僕自身が無自覚に過ごしているのが実情であり、今回のように改まって、君に問い掛けてみて、その違いを僕自身が再確認をしたような為体(ていたらく)であったから。

と言う訳で、このような時には繰り返し、お世話になっている、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の助けを借りると、そもそも「学習」という語は「学びならうこと。学校などで勉強すること」を指し示し、その用例も古く、奈良時代の末期に編纂され、平安時代の初頭(797年)に奏上された『続日本紀』にまで遡るようであるし、さらに遡って、この語が登場するのは養老2年(718年)の条であるから、そのまま素直に受け取れば、この語は奈良時代の初頭には、すでに使用済みの語であったことにもなりうるであろう。ところが、これに対して「学修」という語の場合には、その用例に挙げられているのが、驚くべきことに『続日本紀』から1100年近くも時を隔て、明治24年(1891年)になってから出版された、三宅雪嶺(みやけ・せつれい)の『真善美日本人』であった。

なお、これに続けて『日本国語大辞典』が挙げているのは、井上哲次郎(いのうえ・てつじろう)が明治22年(1889年)に『大日本教育会雑誌』に発表した論文(「伯林東洋学校の景況并に日本学を我邦に振興すべき事」)であるけれども、これは実は、やがて三宅雪嶺の著書(と言うよりも、口述筆記である『真善美日本人』)の中に、再録されることになる論文であったから、結果的に「学修」という語の用例として古いのは、当時、ドイツのベルリンに留学中であり、まさしく「伯林東洋学校」の「日本学」の講師を務めていた、井上哲次郎の方であった。そして、この......日本人初の哲学教授(!)が、ちょうど私たちの国で『教育勅語』の渙発(かんぱつ=発布)された年(明治23年)に帰国を果たし、その解説書(『勅語衍義』)を刊行するに至るのは、さらに、その翌年のことである。

このようにして振り返ると、一方の「学習」という語が古代以降、私たちの国で使われ続けてきた日本語――と言うよりも、元を正せば、漢語であったのに対して、もう一方の「学修」という語は近代以降になってから、新しく使い始められた日本語(Japanese)であることを、君や僕は、さしあたり了解することができる。しかも、それが年代的に、この一連の文章(「教養」の来た道)でも伝えてきたように、明治19年(1886年)の「学校令」と繋がり、連なる語であったことは、疑いがなく、そうであるならば、このような近代以降の、私たちの国の教育理念と教育制度が瓦解をした後に、あらためて、ふたたび昭和22年(1947年)の「学校教育法」において、今度は「学習」という語が復活を遂げるに至った理由も、それ自体、はなはだ分かりやすい道筋であったことにはなるであろう。

その意味において、この「学修」という語を組み立てている、二つの漢字を逆様(さかさま)にして、ひっくりかえした状態にした「修学」という語も、ふたたび『日本国語大辞典』を引くと、そこに挙げられているのが、明治6年(1873年)の「文部省布達」(第51号)や、坪内逍遥の『当世書生気質』(1885年)であった点は興味深く......この点からは、ことによると「学修」が「修学」を裏返しにして作られ、そのまま用いられ出した語であったのではなかろうか、という憶測も成り立たないではない。ちなみに、君や僕も馴染みの深い、いわゆる「修学旅行」が姿を見せるのは、すでに明治28年(1895年)の『風俗画報』(東陽堂)であるが、この雑誌は日本で最初の、文字通りの「画報」であり、それは絵や写真によって構成された、いわゆるグラフィック(graphic)雑誌であった。

――と、このようにして「学修」や「修学」という語の成り立ちを振り返っている最中(さなか)に、ふと僕は、この「修学旅行」という語にヒントを得て、自分が思わぬ誤解を仕出かしてしまっていることに気が付き、愕然(^^;)としている次第。......と言ったのは、なるほど「学修」を「がくしゅう」と読み、また「修学」を「しゅうがく」と読んでいる限りは、これらの語は明治時代になって使われ始めた、近代的な日本語のような気がしてくるし、そこに何の違和感も抱かないまま、通り過ぎてしまいそうであるが、この語を京都にある、あの「修学院離宮」のような形で、その際の「修学」を「しゅがく」や「すがく」と訓読するならば、実は「しゅがく」や「すがく」は平安時代の、例えば『廬山寺文書』(972年)や『更級日記』(1059年頃)に、すでに登場済みの語でもあった。

そうであるならば、もう一方の「学修」も「がくしゅう」とは読まず、これを「がくしゅ」と読むならば、その初出は『日本国語大辞典』によると、どうやら『日葡辞書』(1603年)にまで遡りうるようである。と言うことは、このようにして古代から中世を経て、近世(江戸時代)に至るまで、用いられ続けられてきた「がくしゅ」や「しゅがく」という読み方(すなわち、呉音)を捨てて、これを「がくしゅう」や「しゅうがく」という読み方(すなわち、漢音)に改め、言ってみれば、そこから装いも新たに蘇(よみがえ=黄泉帰)ったのが、例えば「学修(がくしゅう)時間」や「修学(しゅうがく)旅行」という語であったことにも、なりうるであろうか。そして、そのことを通じて、はたして私たち(要するに、君や僕)は、いったい何を手に入れ、何を見失ってしまったのであろう。

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