ホームメッセージ「がくしゅうかん」の話 ――「教養」の来た道(47) 天野雅郎

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「がくしゅうかん」の話 ――「教養」の来た道(47) 天野雅郎

今回も再度(と言うよりも、三度)僕は君に「学修」という語と「学習」という語の違いについて、話を聴いて貰(もら)いたい、と思っている。が、そもそも君が「がくしゅう」という音(声?)を耳から聞いて、これに「学修」という漢字を宛がうことは、仮に君が「お役所仕事」に興味を持っていたり、そのような「お役所」に就職をしたいと願っていたりするのでない限り、めったに起こらない事態ではなかろうか。裏を返せば、ほぼ君は決まって、この「がくしゅう」という音に「学習」という漢字を宛がい、対応させるのを常としているはずである。ちなみに、たまたま君が和歌山大学の、教育学部の学生であるのなら、君の学部の前身が「和歌山師範学校」であることは、きっと知っていたに違いないけれども、それを遡ると、もともと何という名になるのかは、知っていたかな?

回答は、紀州藩(「版籍奉還」の折の正式名称は、和歌山藩)の藩校で、その名は「がくしゅうかん」である。この藩校は、正徳3年(1713年)に徳川吉宗(とくがわ・よしむね)が江戸幕府の第八代将軍(「暴れん坊」将軍?)になる前に、紀州藩の第五代藩主であった頃、和歌山の湊(みなと)に創設したものであって、これが「がくしゅうかん」という名を手に入れるのは、さらに80年近い時間が経った後の、紀州藩の第十代藩主、徳川治寶(とくがわ・はるとみ)の頃であり、厳密に言えば、寛政3年(1791年)のことである。そして、それから再度、80年近い時間が経ち、今度は江戸時代の最末期の、慶應2年(1866年)になって、和歌山城の南隣にあった藩校(岡山文武場)と合体し、その名を「がくしゅうかん文武場」と改めるに至ったのが、この「がくしゅうかん」の歴史である。

ただし、ここから和歌山大学の教育学部が誕生するまでには、さらに三度(みたび)の、80年を越える歳月を跨ぐ必要があり、それは当初、和歌山大学が経済学部との二学部制でスタートを切った、昭和24年(1949年)5月31日(山脈の つらなる果てに 黒潮は 岸辺を洗う 若人は 夢はるけし 希望 大学 われら......♪)のことである。――とは言っても、このような和歌山大学の発足により、そのまま即座に、この「がくしゅうかん」の跡を継いだ「和歌山師範学校」が消えて無くなってしまった訳ではなく、同校の閉校は2年後の、昭和26年(1951年)3月31日を待たなくてはならない。また、このようにして和歌山大学が誕生した折には、教育学部は教育学部とは呼ばれておらず、そこには「学芸学部」(Faculty of Liberal Arts of Wakayama University)の名が冠せられていた。

今でも、その折の名残(なごり=余波)が君の学んでいる、教室名(例えば、L101号教室= Liberal Arts 101号教室)に留められているように。あるいは、その頃の学部名を表題にして、そのまま『学芸』という機関誌が刊行されていたり、ひょっとすると、どこかで君も目にしたことがあるかも知れない、教育学部の『紀要』を刊行しているのも、この「和歌山大学学芸学会」であったりするように。なお、このような形で和歌山大学の、教育学部が「学芸学部」であったのは、昭和24年(1949年)から昭和41年(1966年)に至るまでの、足掛け18年の間であり、その間を、君が長いと感じるのか、短いと感じるのか......それは君の、感受性(sensibility? sensitivity?)の問題ではあるけれども、裏を返せば、教育学部にしても高々、現時点では47年(^^;)の歴史に過ぎない訳である。

さて、このようにして振り返ると、もともと和歌山大学の教育学部とは、その前身が「学芸学部」――すなわち、自由学芸(リベラル・アーツ=教養)学部であった段階から、さらに「和歌山師範学校」であった段階を経て、最後には「がくしゅうかん」と称されていた、江戸時代の昔(厳密に言えば、ちょうど222年前)にまで辿り着くことになるのであるが、その「がくしゅうかん」を漢字に直すと、それは「学修館」であったろうか、それとも「学習館」であったろうか......と、僕は君に問い掛けなくてはならない。なにしろ、それを目的として、ここまで僕は、このブログのページを書き継いできたのであるし、そのことに決着を付けて、そもそも「学修」と「学習」とは、いったい何が、どのように違っているのかを明らかにしないと、僕の肩の荷を下ろすことも、叶わないからである。

結論から言えば、正解は「学習館」の方である。ただし、それでは「学習館」の方が正解(○)であって、もう一方の「学修館」は不正解(×)になってしまう理由は何なのですか、と君に訊(き)かれてしまうと、正直な所、僕は相当に困ってしまうのであるけれども、少なくとも僕が、今から222年前の和歌山に住んでいて――と、突然、突拍子もないことを言い出すのが、いつもの僕の癖であることは、きっと君も充分に承知してくれているに違いないが、この「学習館」の中に(武士として? 農民として? 職人として? 町人として?)立ち入る機会があった際のことを想像してみよう。無論、無理は重々、承知の上で、想像してみよう。すると、そこには多分、次のような声が大きく響き渡っていたのではなかろうか、と僕は思うのであるが、さて君は、賛同してくれるであろうか?

 

子曰 学而時習之 不亦説乎 有朋自遠方来 不亦楽乎 人不知而不慍 不亦君子乎

 

この漢文を、はたして君が訓読(すなわち、日本語読み)の可能な状態に、いてくれているのか、どうか......僕は事情が、よく分からないけれども、おそらく君も高校生の頃、この漢文には文字通りの「漢文」の時間に出会っているのではあるまいか。――と、僕は勝手に決め付けてしまい、そのまま読む下し文を書き記さないで済ますことも、できないではない。が、この漢文については実は、専門家(スペシャリスト)の間でも幾つか、面倒な議論があって、読み下し方にも、いろいろ違いが残されているのが現状であり、その分、結果的に読み下し文を書き添えておいた方が、君にとっても、僕にとっても、好都合であるに違いない。と言う訳で、ひょっとすると君は、既(すんで)の所で命拾い(^^;)をしたのかも知れないが、その読み下し文とは、一般的には以下のようなものである。

 

子(し)曰(い)わく、学びて時に之(こ)れを習(なろ)う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからず乎(や)。朋(とも)有り遠方より来たる、亦た楽しからず乎。人(ひと)知らずして慍(いか)らず、亦た君子(くんし)ならず乎。(吉川幸次郎『論語』朝日新聞社)

 

このようにして読み下すと、この漢文が『論語』の冒頭の一節であることを、君は察してくれているに違いない。また、この漢文の最初の一句(「学而時習之」)から、今でも君や僕が使い、お世話になっている、まさしく「学習」という語が産み出されるに至った点についても、君は了解済みであるに違いない。言い換えれば、このようにして「学習」という語は、かつて2500年も昔の中国において、孔子が彼の弟子たち(3000人!)に向かって語り掛けた、言ってみれば彼の学園と、そこに営まれる学園生活の標語(モットー)であり、しかも、それは彼らが「学習」に際して感じていた、喜び(^O^)を伝えるものに他ならなかった。すなわち、彼らにとって「学習」と、これを共有することのできる「朋(=友)」とは、人間(要するに、君や僕)にとっての、最高の宝物であった次第。

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