ホームメッセージ空気を、読み解く力 ――「教養」の来た道(48) 天野雅郎

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空気を、読み解く力 ――「教養」の来た道(48) 天野雅郎

そろそろ、もう「がくしゅう」の話は切り上げて、別の話題に移ろうかな、と思いながら、また今回も、しつこく僕は君に「がくしゅう」の話を続けたい。でも、このような話を繰り返していると、何だか僕が「KY」(ケーワイ)になってしまったかのようで、あまり好い気はしないのであるが、そもそも君は「KY」のK(ケー)が「空気」の略語であり、頭文字であることを知ってはいても、その際の「空気」が元々、オランダ語のLugtの翻訳語であり、江戸時代の末期に蘭学者(すなわち、オランダ学者)によって考案をされた語であったことまでは、きっと知っていなかったに違いない。また、これが「空気を読む」という使い方を産み出すに至ったのも、遡れば明治時代の初頭の、どうやら田口卯吉(たぐち・うきち)の『日本開化小史』(1877年)あたりが、その始まりのようである。

――と言ったような、知った風な口が利(き)けるのも、それは当然、僕が恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引いているからに他ならないが、別段、このような僕の「習慣」を、この場で君に、何が何でも押し付けよう、という気は、さらさら無い。けれども、いたって正直に言えば、このような「習慣」......ブレーズ・パスカルの表現を借りれば、まさしく「第二の自然」(『パンセ』)が、とても大切な、人間の能力の一つであり、それどころか、その最たるものである(!)と僕は確信をしている。なぜなら、このようにして何かを習(なら)い、それに慣(なれ)ることで、やっと人間は、人間になることが叶うのであって、その意味において、習慣こそは人間の「がくしゅう」の原点であり、さらに言えば、それは「教育」の起源に他ならない、と僕自身は思っている。

また、そのような「教育」(education)という語と、この語によって指し示される行為は、その前提として、原理的にも歴史的にも、いわゆる学舎(ガクシャ)――訓読をすれば「まなびや」を必要としているのであって、例えば現在、君や僕が「家庭教育」や「地域教育」や、ひいては「社会教育」や「生涯教育」という名で呼んでいる「教育」も、その源にまで遡れば、このような学舎(すなわち「学校教育」)を背景として、そこから派生的に、場合によっては、矛盾や軋轢(あつれき)を通じて産み出されてきたものに他ならず、その点に即して言えば、あくまで「教育」とは、もともと「学」(旧字:學)という、その「屋上に千木(ちぎ)のある建物」(白川静『字統』)の中で営まれ、その「建物」においてこそ、文字通りの「学び」(=真似び)は、可能であったに違いない。

したがって、そのような「学び」の場である「学びの園」(=学園・学苑)や、あるいは「学びの窓」(=学窓)を訪ねて、君も僕も、とても多くの時(time=潮の流れ)と、とても多くの金(money=警告!)を費やしながら、それぞれの「学びの道」を辿ってきたし、今でも、その「学びの道」を辿っている訳である。が、それにも拘らず、と言っては恐縮であるけれども、君は普段、その「学びの窓」......「朝ゆふなれにし、まなびの窓、ほたるのともし火、つむ白雪~♪」(文部省唱歌『あふげば尊し』1884年)から、どのような「学びの道」を見つめ、その道を辿ることで、その道の向こうに、いったい何を探し求めようとしているのであろう。それとも、君は毎日を汲々(きゅうきゅう)として、君の周囲の「空気を読む」ことに一生懸命(正しくは、一所懸命)になり、身の回りをキョロキョロと見回しては、いつもの「借りてきた猫」を演じ続けているのであろうか? 

僕自身は反対に、いつも君(と言うよりも、君たち)を見回していて、何と昨今の大学生は忙しく、気忙(きぜわ)しく、大慌てで「学びの道」を通り過ぎるものかと、呆れ返ることがある。そして、そのような大学生――かつて明治19年(1886年)に、文部省が編集した「小學校教科用書」(『讀書入門』)の文言(「まなべよ、まなべよ、たゆまずうまず。いそげよ、いそげ、まなびのみちを」)のように、ひどく狭く、細い道を、脇目(わきめ)も振らずに邁進しているグループが、いるかと思えば、その一方で、そのような一心不乱(?)なグループとは、同じ大学生とは思えない、縁(エン)も縁(ゆかり)も無いかのような「三年寝太郎」や「眠り姫」や、それは、それは、驚くべき醜態ぶり(^^;)を演じる大学生を見るに付け、毎日が「不思議の国」(wonder land)のようである。

ところで、僕は目下、そのような大学生を後目(しりめ=尻目)に、授業の一つで『論語』を読んでいる。それも、可能な限り黙読でなく、音読――ただし、あくまで原文ではなく、いわゆる読み下し文の音読ではあるけれども、とにかく、音読で『論語』を読むことを試みている。まあ、いつもの調子で僕が不意に、このような突拍子もない試みを始めてしまったから、この授業を受講している学生諸君(ひょっとして、君?)には迷惑千万な事態であるのかも知れない。でも、そもそも『論語』は日本人(それどころか、人類)にとって、おそらく今に至るまで、もっとも多くの読者を獲得してきた書物、すなわち、古典の中の古典であり、それは文字通りに最高水準(classic)の文化遺産(cultural heritage=教養遺産)なのであるから、これを読まない手はない、と僕は思っている。

言い換えれば、このようにして『論語』を読むことで、君や僕は結果的に、このような人類の、壮大な読書(reading=「読み解き」ing)の、その......1頁(ページ)の中の、1行の中の、1字の中の――想像しただけでも、気を失いかねない、膨大な書物の中の、わずかな隙間(すきま)に入り込み、その読者(reader)の一人に、名を連ねることが叶う訳である。が、そのこと自体は、例えば君が普段、空を見上げて、太陽や月や星々を眺め、暮している最中(さなか)にも、ありふれた形で常に経験している、とても不思議な、神秘的(ミステリアス)な出来事に他ならないのであって、これまで君は、いったい何人の人間が、それどころか、動物や植物をも含めれば、どれほどの数の生き物が、君と同じように空を見上げて、太陽や月や星々を仰いできたのか、想像したことがあったろうか?

そして、その時、君が「フ~」と......深く、長い息(=嘆き)を吐き、何らかの感嘆の声を漏らしたとしよう。すると、その声は再び、どれほど多くの空気(air)と、響き合うことになるのであろう。また、今も響き合っているのであろう。そのことを想像しただけでも、きっと君は茫然とした思いに囚われ、まるで君が茫漠とした、はてしない草原(=茫)に佇み、茫然自失となっている姿を重ね合わせざるをえないに違いない。でも、そのような時にこそ、逆に君は「教育」や、いわゆる「がくしゅう」の出発点に立ち、文字通りの「学びの道」を歩き始めていることを知るべきである。――そのような君のために、僕は今回も、例の「神様」(岡林信康)の曲(『みのり』)を君に紹介し、この歌の中で「神様」が、自分自身の娘に向かって語り掛けた、以下の台詞(せりふ)を口ずさもう。

 

......みのり 僕が出会えぬ人と

僕が見ることの できないものを

いつか おまえは 見るだろう

いつか おまえは 出会うだろう

あの星は お月様は

いろんなものを 見たろうね......

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