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空気を読む、を英語で言うと? ――「教養」の来た道(49) 天野雅郎

空気を読む、を英語(English)で言うと、いったい何と言うのでしょうか? ......という、僕にとっては、よく訳の分からない質問(question)が、たまたまパソコンの画面を見ていた折、目に付いたので、このような質問が僕にとっては、よく訳の分からない理由から、まず今回は、君に話を聴いて貰(もら)うことにしたい。――なお、どうやら英語では「空気を読む」が、そのまま直訳(read the air)をしても意味が通じないらしいことは、いたって英語の不得手(ふえて)な僕(^^;)にも、どうにか合点(がてん←がってん)が行く点ではあるけれども、これに対して世間の英語通(!)が、そろって同じ動詞のreadを使い、例えばread the atmosphereやread the situationという言い方をするのは可能である、と教えてくれても、率直な所、僕にはピンと来ないのが実情である。

また、その際に動詞のreadを、場合によってはfeelやsenseに、あるいはsensitive(→be sensitive to)に、それぞれ置き換えても大丈夫である、と彼ら(彼女ら?)が教えてくれても、そもそも何が、どの程度まで、どのような状況下において大丈夫(これって、英語で何と言うの......?)なのか知らん、と心配性(natural worrier)の僕は、気になって、気になって仕方がなく、このようなことをクドクドと考え、思い煩(わずら)っている内は、結果的に僕の口から流暢(りゅうちょう)な英語が飛び出してくる虞(おそれ)はなく、僕が颯爽(さっそう)と達者な英語を操り、グローバル戦線の尖兵となることがない代わりに、逆に僕が鼻持ちのならない状態で、英語をベラベラと喋り捲(まく)り、まさしく「KY(空気の読めない奴!)」と陰口を叩かれることも、ない訳である。

ついでに、このような英語(イギリス語? アメリカ合衆国語? カナダ語? アイルランド語? オーストラリア語? ニュージーランド語? 南アフリカ共和国語? フィリピン語? シンガポール語? ......それともlingua franca?)との付き合いが、いたって苦手(にがて)な僕は、さらに困ったことに、僕自身にとっての「第一言語」であり、いわゆる「母語」(mother tongue=母の舌)である、日本語(Japanese=ジャパン語)に対しても、まったく同様の苦手意識を持ち続けている始末であって、この齢(よわい=世延・世這)に至っても、なかなか日本語のことが理解できず、いったい何時になったら、それ相応に日本語の嗜(たしなみ)が身に付いて、うまく日本語と付き合うことができるのか知らん、と気が気でない悩みを抱えながら、日々、日本語との格闘を続けている。

ところで、僕は前回、このようにして「空気を読む」という日本語や、裏を返せば、反対に「空気を読めない」とか「空気を読め(!)」とか、あまり気持ちの好くない(=気持ちの悪い→「キモい」)日本語......要するに、いわゆる「KY(ケーワイ)」という日本語について、あれこれ君に話を聴いて貰(もら)ったが、その後で、たまたま例の「神様」(岡林信康)の出身地でもある滋賀県に赴(おもむ)くことになり、彦根市にある滋賀大学の経済学部に、お邪魔をして、和歌山大学の教養教育改革(すなわち、この「教養の森」センター)の取り組みについて、いろいろ説明をさせていただいた次第。その所為(せい←しょい)もあって、このブログの更新にも、遅れが生じてしまったけれども、この経緯を大目(おおめ=多目)に見て、どうか君も、勘弁(かんべん)して頂戴(チョ~ダイ)。

ちなみに、僕は平生、出不精(でぶしょう=出無精)が災いをして、あまり方々に出歩くことがなく、今回も滋賀大学には、はじめて足を運んだような為体(ていたらく)であった。が、めったに出歩かない人間が、めったに出向かない場所に出向くと、それ相応の恩恵は、確実に施されるものであって、正直な話、彦根城(国宝!)の堀端(ほりばた=濠端)に正門を構え、中に入ると、右側には旧制の彦根高商(彦根高等商業学校)の頃の講堂(現:経済学部講堂)が佇み、さらに正面に向かって歩くと、今度は陵水会館(旧:彦根高等商業学校同窓会館)が見えてくる――そのような、滋賀大学の風景(landscape=土地の形状)を前にして、僕は普段、自分自身が日常生活を送っている、和歌山大学の風景を想い起こし、ついつい羨(うらや=心病)ましくて(^^;)仕様がなかった次第。

調べてみると、講堂の方は大正13年(1924年)に創建されたものであるから、この年は日本で言えば、例えば宮澤賢治が生前において、唯一の詩集(『春と修羅』)と、唯一の童話集(『注文の多い料理店』)を刊行(自費出版!)した年でもある。また、この年は世界的に見れば、例えばトーマス・マンが『魔の山』を出版し、それとは裏腹に、カフカが満40歳で、レーニンが満53歳で、それぞれの志(こころざし=心指し)なかばで、不遇の晩年(?)を閉じたのも、この年である。一方、会館の方は昭和13年(1938年)に創建されているから、この年は日本では「国家総動員法」が公布されたり、ヨーロッパではナチスがユダヤ人の集会堂(シナゴーグ)を襲撃し、あの「水晶の夜」事件が起こったりした、まさしく「第二次世界大戦」の勃発の直前の年であったことが、想い起こされるはず。

言い換えれば、このような時代(time=潮の流れ)において創建された、かつての講堂や会館が今も残り、そのまま文化財(cultural properties=教養財)として身の回りにあり、しかも、その気になりさえすれば、その時代を絶えず、いつも身近に感じ取ることのできる滋賀大学は、君や僕のように、大学という場所で多くの時間(time)を過ごす身にとっては、はなはだ恵まれた環境(environment=円周圏内)にある、と評しても構わないのではなかろうか。裏を返せば、そのような環境を欠いている(それとも、置き去りにしている?)和歌山大学は、かなり真面目(音読:しんめんもく・しんめんぼく、訓読:まじめ→「マジ」)に、自分自身の環境問題(environmental problem)を、見つめ直す時期(time)に至っている、と僕は感じるのであるが、さて君は、どのように感じるかな?

このような文化財には、大きく分けると、いわゆる「有形文化財」と「無形文化財」の区別があるけれども、より深く、君や僕の命(いのち=生の霊)に即して、このような文化財を理解するならば、すべての有形なもの(tangible=触知可能なもの)は、無形なもの(intangible=触知不能なもの)に結び付かざるをえず、その意味において、あらゆる文化財は最終的に、ことごとく「無形文化財(intangible cultural properties=無形教養財)」であらざるをえない。......と、このようなことを考えながら、僕は滋賀大学の近くの、琵琶湖畔の道から、はるか郷里(島根県松江市)の、宍道湖の風景を思い描き、その湖面を流れる、冬の空気を感じ取っていた次第である。――最後に、今回も例の「神様」に敬意を表しつつ、その歌(『嘆きの淵にある時も』)を、君のために書き留めよう。

 

季節の流れ 瞳(ひとみ)こらし

命の言葉 聞きとるなら

全てを委(ゆだ)ね この身をまかす

たとえ行く手が 見えない時も

望みが この大いなる

命の流れに 添うものなら

かなわぬ事が 何故 あるだろう

実らぬ事が 何故 あるだろう

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