ホームメッセージ「思ひ出」の話 ――「教養」の来た道(5) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

「思ひ出」の話 ――「教養」の来た道(5) 天野雅郎

太宰治のことを話題にした序(ついで)に、もう少し、この「無頼派」と世間では呼び習わされている、繊細さ(デリカシー)に溢れた男の話を続けておこう。前回、君に紹介した『思ひ出』という作品――これも『思い出』とは書かずに、あえて『思ひ出』と僕は書いているが、それは些細な、このような気遣いをするだけで、この「思ひ出(おもひいで→おもひで)」という語が例えば、遠く平安時代の『古今和歌集』の春の歌の中に含まれている、詠み人知らずの歌(「散りぬとも/香をだに残せ/梅の花/恋しき時の/おもひいでにせむ」)を呼び起こすこともできれば、それが千年紀(ミレニアム)の時を隔てて、はるかに明治時代の詩集(北原白秋『思ひ出』)に結び付くこともできる喜びを、ぜひ君にも味わって欲しいからに他ならない。

なお、この作品は太宰治(本名:津島修治)が、その「太宰治」というペンネームを使って書いた、いわゆる「処女作」の一つに数えられている。ちなみに、この「処女作」という言い方......何とも、薄気味の悪い言い方は、当然、明治時代以降の翻訳語に他ならず、ふたたび『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を繙くと、そこには内田魯庵の『如是放語』(1898年)が用例として挙げられているけれども、この『思ひ出』という作品も実は、このような「処女」――文字通りには、家に処(い)る女に纏(まつ)わる物語であり、前回の引用の「私たち」(要するに、私と弟)が密かに、共に「赤い糸」で結ばれていると信じていた少女(みよ)が、別の男に「よごされた」のを理由に、忽然(こつぜん)と主人公の前から姿を消してしまう、かなり切ない物語でもある。

この物語を始めとして、合わせて15本の短篇を、太宰治が『晩年』という総題で刊行するのは、昭和11年(1936年)のことであり、年齢的にも、いまだ数えの28歳であるから、この著作が彼の、いわゆる「処女作」に当たっていることは確かである。が、結果的に彼は、今風に言えば、満39歳の誕生日の直前に亡くなってしまうのであり、そのことを踏まえれば、この段階の太宰治が生涯の半ばを過ぎた、これらの作品を「遺書」のように認(したた)める若者であった、という見方をすることも的外れではない。困ったことに、私たちの生きている時代は、すべての人間が、あたかも同じ時間の中を生きているかのような誤解や、錯覚に陥ることに慣らされており、私たちの一人一人が不平等な、不公平な時間の中を生きていることには、目を塞ぎがちである。

ところで、君には正直に告白をしておかなくてはならないが、僕自身は太宰治の、これまでも熱心な読者ではなかったし、おそらく、これからも熱心な読者になることはないのではなかろうか、と感じている。それでも、いろいろ彼の生涯や作品については、このような形で何かを書きたい気が起きるのであるから、奇妙である。なお、個人的な話で恐縮ではあるが、おそらく僕自身が最初に太宰治を読んだのは、ご他分に洩(も)れず『走れメロス』であったように記憶している。ただし、それが中学校の頃の教科書であったような気もするし、そうではなかったような気もする。それと言うのも、僕の手許には今、新学社文庫という、かなり年代物の文庫が置かれており、その奥付には、1968年(昭和43年)の日付が記されているからである。

と言うことは、この文庫(と言うよりも、その判型に従えば新書)を、ちょうど中学校に入り立ての頃......そのことだけは、よく憶えているが、僕は母から買い与えられ、この12冊の「若き日に一読すべき良書」のページを捲(めく)っていたことになる。もっとも、それが棟方志功の版画や小泉保夫の挿絵を伴った、かなり重厚な感じのする本であったことも手伝って、僕の気後れを招いたことも疑いがない。例えば、この文庫(『走れメロス・思ひ出』)の冒頭には、当時の東京神学大学(Tokyo Union Theological Seminary)の教授、井上良雄の序文が収められており、その序文は「青春の文学」と題され、そこには読者へのメッセージが、次のような形で載せられている。ちなみに、東京神学大学は私たちの国で唯一の、キリスト教神学専門の単科大学である。

私は、太宰治と直接の交渉はありませんでしたが、大体同じ時代の人間で、彼の文学が語っているすべての問題は、そのままわたし自身の問題だと言ってもいいくらいです。(改行)したがって、わたしは、彼の文学を愛読するというよりは、もっと痛切に、身につまされるような思いで、今日まで読んで来ました。(改行)彼の第一創作集『晩年』が出版されたのは、昭和十一年でしたが、当時二十八歳の青年がその第一創作集に『晩年』という題をつけなければならないほど、彼の青春は暗くゆがんだものでした。しかし、それはそのまま、わたしたち昭和初期という時代に生きていた青年たち自身の青春の姿だったと言うことができます。

今にして振り返れば、このような序文を中学生になったばかりの僕が、とうてい読んでいたとは信じられないが、仮に読んでいたとしても、それがチンプンカンプンであった可能性は、きわめて高い。しかし、それでも想い起こせば、その頃の僕の周囲には、やたら「青春」の二文字が飛び交っていたことは事実であり、そのような「青春」ブームの渦中にいて、ひょっとすると僕が一端(いっぱし)の顔をして、この「青春」の二文字を口走っていた懼(おそ)れが、ない訳ではない。その意味において、僕は相当の「おませ」であったことも、君には告白をしておこう。逆に言えば、そのような「青春」ブームが過ぎ去って、もう随分、時間が経ってしまった時代の若者である君には、このような序文が、どのような印象を与えるのであろうか。

その後、何十年かが経過して、時代はうつり変わりました。しかし、彼の文学を愛読する青年は、今もあとを絶ちません。それは、彼がその時代の青春を真剣に生きることによって、昭和初年という時代の制約をこえて、青春というものの持っている永遠の問題をさし示しているからでしょう。彼の文学の喜びも苦しみも美しさも不安も浅薄(せんぱく)さも気取りも、すべての時代のすべての青年たちのものです。そこには、何の解決らしいものも示されていないかも知れません。しかし、自分の青春を精一杯真実に生きた人間がいたということが、わたしたちにとって、慰めでないはずはありません。

この序文の言うように、今でも太宰治の「文学を愛読する青年」が、後を絶っていないのかどうか、僕には判断が付きかねるが、相変わらず彼の名は、さまざまなメディアを通じて宣伝されており、とりわけ3年前(2009年)には彼の生誕100周年を記念して、多くの出版物が出回り、あるいは映画――例えば、浅野忠信が『ヴィヨンの妻』において、生田斗真が『人間失格』において、それぞれ太宰治を演じたことは記憶に新しいし、いささか時期は早いが、塚本高史が『富嶽百景』(2006年)で、河村隆一が『ピカレスク・人間失格』(2002年)で、それぞれ太宰治を演じた映画も、僕の手許にはある。もっとも、どの映画も僕の目には、何か変......と言わざるをえないが、そうであるからと言って、取り立てて格好の太宰治役も、僕には思い付かないのが実情である。

ともかく、先ほどの序文が書かれてから、すでに45年(!)ばかりの時が経ち、この序文の作者の、当時の年齢(61歳)も、ほとんど僕には手の届く範囲になってしまったが、それでは現在、この作者のように中学生に面と向かい、真面目(まじめ)に、真面(まとも)に、僕が「青春」という「永遠の問題」を訴え掛けることができるのか、と言えば、いささか不安な気がしないではない。その点で振り返れば、そもそも太宰治が「青年」に向かい、このような訴え掛けのできる作家であったことは覚えておいてよいし、そのことを通じて、ぜひ君も太宰治の本を手に取り、そのページを捲って欲しい、という思いは僕にもある。なにしろ、それなりの短時間で、それなりの低予算で、君を確実に「青年」に変身させてくれるのが、読書なのであるから。 

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University