ホームメッセージ「百科事典」の思い出 ――「教養」の来た道(54) 天野雅郎

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「百科事典」の思い出 ――「教養」の来た道(54) 天野雅郎

前回は、ひょんなことから金関丈夫(かなせき・たけお)の名を書き記すことになり、そのことで僕自身が、かなり驚いている始末であるが、この解剖学者……と言うよりも、人類学者でもあれば民俗学者でもあり、考古学者でもあれば歴史学者でもあり、文学者でもあれば小説家でもあり――と言った具合に、この人の魅力は文字どおりの「脱領域」的(extraterritorial=「治外法権」的)な知性にある。その意味において、この人の頭の使い方や、言葉づかいの妙(みょう)を振り返ることは、結果的に私たちの国において、どのようにして「教養」という語が生まれ、今に至っているのかを、要するに、この一連の文章(「教養」の来た道)の主題を語ることに他ならない、と僕は思っているけれども、ことによると君は、この人の名を、これまで聞いたことがなかったのではなかろうか?

理由は簡単で、このようなタイプの知性(intellect=中間選択能力!)が、残念ながら現在の大学には、ほとんど存在する余地がなく、例えば君が、君の周囲の先生たちや友人たち(すなわち、大学生)を見回しても、そこに存在しているのは特定の、ある限られた領域の専門家(スペシャリスト)であるか、あるいは、そのような専門家への道を突き進もうとしている、専門家予備軍(ひょっとして、君……^^;)であったからである。ちなみに、ここで今、僕が手にしているのは、かつて法政大学出版局から刊行された、金関丈夫の『お月さまいくつ』という本であるが、この本を僕は、どうやら奥付を見ると、昭和55年(1980年)に買い求めたらしく、単純に言えば、それは当時の大学に、まだ金関丈夫のような知性を発掘し、評価する雰囲気が残されていた、という証拠にもなるであろう。

と言ったのは、この当時、法政大学出版局から金関丈夫の著作が次々と刊行され、それが全部で10冊に達し、完結を見るに至ったのは、ちょうど僕が20代の前半の時分のことであり、その内の、数冊を僕は買い求めて、今でも我が家(「天野図書館」)の書架の片隅に、それらの本を並べているのであるが、その内の、言ってみれば最終巻に当たるのが、この『お月さまいくつ』であって、裏を返せば、このようにして彼の著作が次々と刊行されたのは1970年代の後半であったことになる。そして、その本の中から、表題にもなっている、当時は未発表の論文(「お月さまいくつ」)を取り上げて、僕は前回、君に「月齢」の話をするための、きっかけとした次第である。が、そのことで僕には思いも寄らぬ好運が訪れて、いわゆる「つき」(付き)が齎(もたら)されたことにもなるであろうか。

ところで、その際の「月齢」の用例として、たまたま『日本国語大辞典』(2006年、小学館)が挙げているのは、何と、昭和11年(1936年)に刊行された『(大増補改訂)や、此(これ)は便利だ』である。――と言って、この時点で君が、この、いかにも悪巫山戯(わるふざけ)のような書名のことを、すでに知っていて、ニヤニヤと笑ってくれているのであれば、それこそ僕は、涙が出るほどに嬉しい(^O^)のであるが、この本は実は、現在でも『世界大百科事典』で有名な、あの平凡社が、はじめて出版した百科事典(厳密に言えば、小百科事典)であり、ここから「事典の平凡社」の歴史は始まっている。また、それよりも何よりも、この出版社が元来、このような百科事典の刊行を目的として、大正3年(1914年)に創立されたものであったことを、君には知っておいて貰(もら)いたい。

なぜなら、そもそも「百科事典」とは、いわゆる「エンサイクロペディア」のことであり、これをイギリス語ではencyclopaediaと表記し、アメリカ語ではencyclopediaと表記するけれども、いずれにしても、その語源はギリシア語に遡り、そのまま訳せば「円形の(enkyklios)教育(paideia)」の意味であったから。そして、そのような「円形の教育」が、文字どおりに幅の広い、学問や知識の総体としての「教養」を指し示す語であった時代から、やがて書物としての「百科事典」を指し示す語に姿を変えるのは17世紀のことであり、さらに18世紀には、あのディドロやダランベールの監修した『百科全書』へと結実し、それを母胎にして、君や僕の生きている社会(society=友人関係)が産み出されるに至ったことを踏まえれば、このような「百科事典」の重要性は言わずもがな、である。

なお、そのような「百科事典」は、ここでも『日本国語大辞典』の助けを借りると、その用例に挙げられているのは、徳富蘆花(とくとみ・ろか)の『思出(おもひで)の記』であったから、ちょうど19世紀の最後の年(明治33年・1900年)から、20世紀の最初の年(明治34年・1901年)に掛けて、私たちの国で使われた語であったことが分かる。ただし、その際の表記は「百科字典」であり、これ以外にも「百科辞典」や、あるいは「百科辞書」や「百科辞彙」という表記が……いずれも、正しく書けば「辞」は「辭」であるが、併存していた時期があって、例えば「百科全書」も、明治37年(1904年)の『英和商業新辞彙』や、その翌年の『風俗画報』(第324号)を、それぞれ『日本国語大辞典』は用例として挙げているから、この語にしても、ほぼ同時期の用語であったことが窺われうる。

このような「百科事典」の歴史を振り返れば、ちょうど今から100年前に、芳岳(ホウガク)こと下中彌三郎(しもなか・やさぶろう)が平凡社を創業し、そこから『(ポケット顧問)や、此は便利だ』を出版するのは、まさに時流に乗った行為であったに違いない。が、ここで僕が、この平凡社の創業者のことで、君に知っておいて欲しいのは、彼自身は小学校に、わずか3年間、在籍した経歴しか持っておらず、その点において、ほとんど通常の学校教育を受けたことのない、独学(self-education)の徒であったことである。言い換えれば、そのような独学に必要な、最適の「顧問」(アドヴァイザー)ともなりうるのが、ほかならぬ「百科事典」であり、興味深いことに、そのような「百科事典」を当時、彼は嘱託教員として勤めていた、埼玉県師範学校の授業を通じて思い付くことになる。

僕個人は、そのような平凡社の『世界大百科事典』を――それも、昭和39年(1964年)から昭和43年(1968年)に掛けて、林達夫(はやし・たつお)を編集長として刊行された旧版(全26巻)を、今でも時折、本棚から持ち出し、そのページを開くことがある。奥付を見ると、この「百科事典」が僕の本棚に並んだのは、どうやら昭和46年(1971年)のことであったから、これは僕の両親が、高校進学の折、僕に買い与えてくれたものに違いない。もっとも、その頃の僕は、この『世界大百科事典』の有難味(ありがたみ)が、皆目と言っていいほどに分かっておらず、この「百科事典」を編集した林達夫の凄味(!)にしても、やっと大学生になった年、久野収(くの・おさむ)との共著(『思想のドラマトゥルギー』)が刊行されて、はじめて目を開かれたような、為体(ていたらく)であった。

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