ホームメッセージ教室は劇場だ! ――「教養」の来た道(56) 天野雅郎

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教室は劇場だ! ――「教養」の来た道(56) 天野雅郎

さて、今回も引き続き、林達夫(はやし・たつお)の評論(「十字路に立つ大学」)の中から、その教室風景……それを林達夫は「はなはだいかがわしい、多元的な心理劇の行なわれている、グロテスクな舞台」と称し、僕自身は「地獄絵図」(^^;)と呼んだけれども、それが林達夫の評している通り、はなはだ「複雑にして怪奇な所業の行なわれる場所で、それを単純に勉学の場所だなどとはいささかも思えない」という点については、ほとんど僕も同感であるし、この点については、きっと君も同意してくれるのではあるまいか。要するに、君(すなわち、学生)の目から見ても、僕(すなわち、教員)の目から見ても、いわゆる「教室」とは君や僕が、お互いの「良心」に問い掛けた時には、その「いかがわしい」点に思い当たり、きっと反省を強いられざるをえない、独特の空間なのである。

その意味において、この空間が文字どおりの、演劇的(dramatic)な空間であり、それが再度、林達夫の言い回しを借り受けるならば、そこで「はなはだいかがわしい、多元的な心理劇の行なわれている、グロテスクな舞台」であることを、君や僕は了解し、深く、深く、納得せざるをえないはずである。――とは言っても、いったい何時の時分から、このようにして教室は「いかがわしい」(←いかがしい! ←いかが?)場所に、なってしまったのであろうか、という疑問は生じざるをえない。そこで、今回も恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「教室」の語を引くと、そこには一番目に「学校で、学習指導の行なわれるへや。学問や技芸を教授する室。教場」という語釈が掲げられていて、用例には、国木田独歩(くにきだ・どっぽ)の『日の出』(1903年)が挙げられている。

と言うことは、ひょっとすると「教室」という語は前世紀(すなわち、20世紀)になってから、使われ出した語なのか知らん……と、いささか僕は気になったので、今度は『日本国語大辞典』が「教室」の、言い換え語にしている「教場」の方を調べてみると、そこには何と、中国の唐代の詩人の、楊巨源(ヨウ・キョゲン)の漢詩(「贈隣家老将詩」)が典拠として挙げられている。と言うことは、と僕は繰り返すけれども、この詩人の生まれた中唐の時代(8世紀)が、この「教場」という語の生まれた時代でもあったことになるであろう。ちなみに、この詩人は一応、大暦5年(770年)の生まれとされているから、それは例の、玄宗(ゲンソウ)皇帝の治世の末年に「安史の乱」が起きて、唐の中央集権制度に破綻が生じ、中国の古代社会が瓦解していく時期にも、当たっていたことになる。

実際、この詩人は同じ時代を生きた、わずかに二歳年少の、あの白楽天(ハク・ラクテン)こと、白居易(ハク・キョイ)と深い親交があったことで知られているし、彼の生まれた年は、ちょうど「詩聖」の杜甫(ト・ホ)の亡くなった年とも重なり合っている。私たちの国の年号(宝亀元年)で言えば、この年は阿倍仲麻呂(あべ・の・なかまろ)の亡くなった年でもある、と言い換えることが出来るであろうが、言うまでもなく、彼は当時の、いわゆる「遣唐使」として中国に渡り、半世紀以上の時間を中国で過ごし、結果的に中国で、客死を遂げた人であったから、この時代のことを振り返る時には、あまり日本だ(!)中国だ(!)と声を大にしない方が賢明である。例えば、この時代に等しく生まれ合わせた、最澄(766~822)や空海(774~835)と言った、当時の「国際人」も然り。

このようにして振り返ると、どうやら「教場」とは、中国においても日本においても、かなり物騒な時代の、好むと好まざるとに拘らず、時代の転換期が産み出した語であったのではなかろうか、という推測が成り立つ。事実、この語の語釈に『日本国語大辞典』が掲げているのは、まず一番目に「武術を教習するところ」であって、言い換えるならば、それは「練兵場。講武所」の意味に他ならなかったことが分かる。逆に言えば、この語が「学問を教える場所。特に、学校で教授する室」となり、そのまま「教室」と置き換えることが叶うようになるのは、驚くべきことに、それから1100年ばかりの時が流れた、明治時代の初頭のことであり、その用例として『日本国語大辞典』が挙げているのは、内田正雄(うちだ・まさお)訳の『和蘭学制』(オランダガクセイ、1869年)であった次第。

なお、これに続いて二番目に、夏目漱石(なつめ・そうせき)の『坊っちゃん』(正しくは『坊つちやん』)の用例を、さらに『日本国語大辞典』は挙げているけれども、これは結果的に、すでに20世紀を迎えた、明治39年(1906年)の用例であったから、この時代には「教場」という言い方と、先刻の国木田独歩の用例(『日の出』)で紹介したように、いわゆる「教室」という言い方が共存し、混在していたことになるであろう。が、一方で夏目漱石の『坊っちゃん』が、当時の中学校――すなわち、数えの12歳から17歳までの、男子生徒のみ(!)の集う旧制中学校の「教場」を指し示していたのに対して、もう一方の国木田独歩の用例では、このような中学校に入学する前の、小学校の「教室」が指し示されているから、そのイメージには相当の開きがあったことにもなるであろう。

もっとも、例えば同じ夏目漱石が、明治41年(1908年)に『朝日新聞』に連載した、あの『三四郎』においては、主人公(小川三四郎)の通う大学(東京帝國大學!)の講義室が、まさしく「教室」と称されているから、どうやら「教室」とは必ずしも、学校の種別や大小(高低?)や、生徒の年齢に応じた物言いでは、なさそうである。実際、例えば君が和歌山大学で、ひょっとすると「専攻科目ごとにおかれている研究室」(『日本国語大辞典』)のことを「教室」と呼んだりしている習慣も、何とも古い、このような伝統の中から生まれてきたものであったのかも知れないね。ともかく、このようにして「教室」であっても「教場」であっても、そこには確実に、その「教室」や「教場」を産み出して、そこを何らかの、教育と学習の場にする社会(ひいては、世界)の存在が控えている。

このようにして振り返ると、例えば林達夫が「十字路に立つ大学」と称し、その教室風景を戯画化(caricature=重荷化)して描いた大学も、それは当時の、学制改革によって生まれた新制大学の、きわめて象徴的な姿であったことになるであろう。裏を返せば、君や僕が現在の、ほぼ似たり寄ったりの教室風景の中で、相も変わらぬ「点取虫」や、あるいは「三年寝太郎」や「眠り姫」や、それから「漫談」家や「読書」家や、俄(にわか)絵描きや「音楽狂」を目にすることが出来るのは、これまた今の、この21世紀という時代の徴候(症候?)であるに違いない。でも、さすがに僕も長年、大学の教員をしているけれども、教室で遭遇したことがあるのは、化粧をしたり、ドライヤーを使ったりしている女子学生程度であって、実の所、まだ「音楽狂」には、出会ったことがないのである。

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