ホームメッセージ「春休み」について ――「教養」の来た道(57) 天野雅郎

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「春休み」について ――「教養」の来た道(57) 天野雅郎

この時期――正確に言うと、今日は3月9日の……目下、冗談ではなく、午前3時9分(早起きは「三文の得」かな、それとも「三文の徳」かな?)を少し過ぎた頃であるけれども、この時期になると、そろそろ大学も一年の終わりを迎え、和歌山大学のキャンパスを歩いている大学生の数も、めっきり減って、チラリホラリと言った状態になる。君も多分、先月(2月)の最初の週に待ち構えていた、恒例の期末試験(セメスター・テスト)が済めば、仮に君が今年度で大学を卒業し、卒業生(graduate=学位取得者)となるのではない限り、まだ君を、卒業論文(graduation thesis)の審査や発表が待ち受けていた訳ではなかろうから、きっと君は「ヤレヤレ」と、すっかり肩の荷を下ろし、文字どおりに羽根を伸ばして、けっこう長い、春休みを迎えることが出来ているのではなかろうか?

もっとも、額面通りに受け取ると、いわゆる春休み(大学業界用語で、小難しく言うと「春季休業」)とは、和歌山大学の場合には、3月16日に始まって、3月31日に終わるのが規則(ルール)であるから、今日(3月9日)は実は、まだ春休みではない(!)という驚くべき事態――何とも、衝撃的(ショッキング)な事態に君は直面せざるをえないことになるし、その意味において、春休みとは短い、わずか半月(厳密に言えば、16日)間の休みに他ならないのであって、このような悲惨な現実も、君は知っておいた方が賢明なのかも知れない。なお、ためしに『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「春休み」の語を引くと、そこには「春季の学校の休暇。また、その期間」という語釈が掲げられ、その用例には、夏目漱石(なつめ・そうせき)の『虞美人草』(1907年)が挙げられている。

具体的に言うと、それは「春休(ハルヤス)みに勉強しやうと云ふんだらう」という一文であるが、この一文を、そもそも君は理解することができるかな? ……と、失礼千万(しつれい・せんばん)な物言い(^^;)を、僕が君に対してすることができるのは、きっと君は「春休み」が、いわゆる学年の最後に位置しており、そのような「春休み」を境にして、それ以前と以後で、文字どおりに古い学年と新しい学年が入れ替わる、と理解しているに違いないからである。ところが、それは君の、単なる思い込み(!)に過ぎないとしたら、いかがであろう。実際、この『虞美人草』を夏目漱石が書いた時点(明治40年)においては、当時の大学の「春休み」は学年の最後に位置していたのではなくて、ちょうど現在の「夏休み」のように、まさしく学年の中間地点に位置していたのであった。

逆に言えば、いわゆる「春休み」が現在のように、結果的に学年の最後に位置することになり、そのような「春休み」を間に挟んで、そのまま学年が切り替わり、例えば君が、大学の1年次生や2年次生から、2年次生や3年次生へと進級をすることが叶うのは、実の所、それほど古い出来事ではなかった訳である。とは言っても、その時点から今に至るまで、もう90年以上の時間が流れ過ぎているから、それを古いと言えば、言えないことはないけれども。ちなみに、この点を前回も例に挙げておいた、あの夏目漱石の『三四郎』の主人公(小川三四郎)が通っていた、当時の「東京帝国大学」に即して言うと、それは大正10年(1921年)以降の出来事であって、裏を返せば、この物語の中で主人公は、決して君や僕と同じ、よく似た「春休み」を経験していた訳では、さらさら無いのである。

もう少しだけ、詳しい説明をしておくと、まず「春休み」が最初に、ほぼ現在のような地位を手に入れたのは、明治19年(1886年)の高等師範学校が一番目であって、これは同年に公布された「学校令」の中の「師範学校令」によって、生じた出来事である。なお、この際に「学校令」を公布したのは、当然、これが勅令(第13号)である以上、明治天皇に他ならないけれども、この時の内閣総理大臣が伊藤博文(いとう・ひろぶみ)で、その下で文部大臣を務めていたのが、例の森有礼(もり・ありのり)であることは、このブログにおいても、すでに君には報告済みである。また、彼らが共に私たちの国の、初代の内閣総理大臣と文部大臣であった点についても、あるいは後年、と言うよりも、この2年後には森有礼が、さらに23年後には伊藤博文が、それぞれ暗殺されるに至ったことも。

と言うことは、私たちの国で初めて、君や僕と同じ、よく似た「春休み」を経験したのは、当時の高等師範学校の生徒であり、それは要するに、この頃の日本で唯一の、やがて「東京高等師範学校」と呼ばれることになる前の、高等師範学校の生徒であり、彼らは将来、中学校の先生となるべき、卵たちであったことになる。そして、この「東京高等師範学校」が名前を変えて、戦後には新制の「東京教育大学」となり、さらに昭和48年(1973年)になってから、それが「筑波大学」と名前を改めるに至ったことも、どこかで君は聞いたことがあったのではあるまいか。ついでに言えば、この高等師範学校の女子部(女子師範学科)から、明治23年(1890年)に独立したのが「女子高等師範学校」であり、これが現在の「お茶の水女子大学」に他ならないことも、すでに君は了解済みであろう。

さて、これに続いて、二番目に君や僕と同じ、よく似た「春休み」が始まったのは、今度は明治25年(1892年)以降の、小学校である。――と言うことは、この時点において、ようやく「春休み」は日本中の、多くの子供の共有する経験への第一歩を踏み出した、と言えるのかも知れないね。でも、その経験が心為(こころなし)か、いつも切ない、場合によっては、ひどく辛い経験でもありえたことは、君や僕が結果的に、この「春休み」に際して、いろいろな別れを経験せざるをえないからであり、そのような別れを通じて、これまで君や僕は幾度かの、学舎(まなびや)を後にしてきた訳である。その意味において、ここでも『日本国語大辞典』が「学舎」の用例に挙げている、次のような歌を、目下、規則(ルール)の上では「春休み」ではない君は、どのように受け止めるのであろう。

 

子等(こら)は皆 帰りはてたる 学びやの 青柳(あをやぎ)の糸に 春の雨ふる

 

この歌を詠んだのは、太田水穂(おおた・みずほ)という歌人であり、この歌は彼の、いわゆる処女歌集(『つゆ艸』)の中に収められている歌であるけれども、この歌集が刊行された頃、すなわち、明治35年(1902年)に彼は数えの27歳で、長野県の小学校の校長を務めている。したがって、この歌は彼の、校長先生時代の歌であったことになる。なお、この歌の中の「青柳の糸」は、そのまま「青柳のしだれた枝を糸に見立てていう語」であると共に、そこから「転じて、乱れやすい心をたとえていう」と、これまた『日本国語大辞典』には書かれている。……このようにして、今から百年以上も前に、君や僕と同じ、よく似た「春休み」の経験は始まった次第。最後に、さっきの夏目漱石の『虞美人草』の用例の、続きの一文は以下の通りである。――「春休みに勉強が出来るものか」(!)

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