ホームメッセージ「老人力」 について ――「教養」の来た道(6) 天野雅郎

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「老人力」 について ――「教養」の来た道(6) 天野雅郎

今回も前回と同様、太宰治の話の続きであるが、それに加えて、前々回の「赤い糸」の話の続きでもある。――と言えば、すでに察しの好い君は、今回の表題の「老人力」なる語の中身についても、それ相応の理解をしてくれているに違いない。とは言っても、この「老人力」なる語が私たちの国で、いわゆる「新語・流行語大賞」に選ばれたのは、もう14年も前の、平成10年(1998年)のことになるから、ひょっとすると君は「老人力」という名で呼ばれる、この「新語・流行語」の存在自体を、まったく知らないのかも知れないし、その成り立ちについては、ほとんど予備知識がなくても、当然なのかも知れない。そこで、まず同賞を主催している自由国民社の『現代用語の基礎知識』に基づいて、この語の簡単な説明を掲げておこう。

 【老人力】「忘れっぽくなった」のは老人力がついたからであって、忘れっぽくなると警戒心がなくなって新しいものが入りやすい状態になり、活性化すると解釈する。「いよいよ俺にも<老人力>が付いてきたぞ!」。なんとも好都合な用語は世界一の高齢大国のニッポン人を勇気づけた。赤瀬川原平が著書「老人力」のなかで披露した造語。(『20世紀に生まれたことば』2000年、新潮OH!文庫)

と聞いて、この語の成り立ちが、どの程度まで君の腑(ふ)に落ちたのかは、定かでないが、少なくとも「老人力」が作家の赤瀬川原平の同名の著書(『老人力』1998年、筑摩書房)に由来するものであった点は、納得してもらえたはずである。ちなみに、赤瀬川原平(本名:赤瀬川克彦)は「尾辻克彦」のペンネームで、昭和56年(1981年)には『父が消えた』で芥川賞(第84回)を受賞しているし、僕個人は1989年の、ちょうど昭和が平成へと改元をされた年の映画(『利休』)の脚本――監督の、勅使河原宏との共同脚本と、それを踏まえて書かれた『千利休・無言の前衛』(1990年、岩波新書)によって、ずいぶん千利休の「茶の湯」への、それどころか「茶の湯」それ自体への、新しい身の接し方を教えられ、目を開かされたことを憶えている。

また、もともと彼は前衛的な、はなはだ前衛的な芸術家(アーティスト)であるから、その筋の著書を通じて、お世話になった点も少なくなく、例えば美術史家の山下裕二との共著(『日本美術応援団』2000年、日経BP社)や、その続編(『京都、オトナの修学旅行』2001年、淡交社)は、君が日本美術に関心があるのであれば、お勧めであるし、彼の「こどもの哲学・大人の絵本」シリーズ(毎日新聞社)は、不肖(ふしょう)、僕のような「哲学」の勉強をする人間にとっても、『自分の謎』(2005年)であれ『四角形の歴史』(2006年)であれ、はなはだ興味深い点が多く、端的に言えば、このような融通無碍(ゆうずうむげ)な頭の使い方こそ、そもそも「哲学」の頭の使い方であり、その醍醐味であり、真骨頂である、と考えているほどである。

さて、そのような赤瀬川原平が「老人力」という語を考案し、厳密に言えば、この年の「新語・流行語大賞」の「トップテン」の一つになった時、この語以外にも、次の9つの語(「ハマの大魔神」「だっちゅーの」「環境ホルモン」「貸し渋り」「ショムニ」「モラル・ハザード」「凡人・軍人・変人」「冷めたピザ」「日本列島総不況」)が「トップテン」入りを果たしており、結果的には「ハマの大魔神」(佐々木主浩)と「だっちゅーの」(パイレーツ=浅田好未・西本はるか)が、それぞれ「大賞」を受賞している。なお、特別賞には「ボキャ貧」(小渕恵三、内閣総理大臣)と「スマイリング・コミュニスト」(不破哲三、共産党中央委員長)が名を連ね、いよいよ私たちの国の「お寒い」状況が、白日の下に晒(さら)された感が強い。――「ガツン!」

ところで、僕自身も最近、何かと物忘れをする機会(チャンス)が増え、それが忙しさの所為(せい)なのか、文字通りの「老人力」の所為なのか、疑わしく思うことがない訳ではないが、そのような折には例えば、あの中国の伝奇小説(「定婚店」)に登場した老人のことを想い起こし、いささか爽快な気分になることがある。この老人の名は、一般に「月下老人」と呼ばれているけれども、場合によっては「月下老」や「月下翁」という呼び方をすることもあるし、同じ中国の、別の伝説(『晋書』芸術伝)と合体して、この老人を「月下氷人」という名で呼ぶこともある。もっとも、こちらの話は主人公(令狐策)が、夢の中で氷の下の、謎の人物(「氷人」)と語り合い、やがて結婚の媒酌をするに至る話であるから、主人公の役回りは、まったく逆であるが。

ともかく、すでに君に紹介した「定婚店」では、主人公(韋固)が旅先で、夜明け前に不可思議な老人と出会い、その老人の口から「赤い糸」ならぬ「赤い縄」の話を聞かされる、という筋立てであった。この時、老人は「月下老人」の名の通り、月明かりの下に座り、謎の書物を読んでいる。そして、彼の携(たずさ)えている袋の中には「赤い縄」があり、この縄によって、やがて将来、結婚相手となる男と女の、生れたばかりの赤子(あかご)の足首を、この老人は結んで回り、仮に「家が敵(かたき)同士でも、身分が上と下にかけ離れていても、遠い地のはてで役人をしようとも、呉と越のように土地が違っていても、この縄でつないだら、結局、避けられないのだ。君の足は、すでに先方につないである。ほかを捜しても無駄だ」(!)と告げられる。

実際、そのようにして主人公は、いまだ3歳の結婚相手と出会い、愚かにも彼女を殺害しようとはするが、運命の「赤い糸」ならぬ「赤い縄」によって、決して二人は引き離されることなく、やがて14年後、最高のカップルとして出会うことになる。なにしろ、そもそも「カップル」(couple)とは英語のbe動詞のように、いわゆる「連結詞」(copula)の役目を果たすものであり、それが一人称(am)に姿を変えようとも、二人称(are)に姿を変えようとも、三人称(is)に姿を変えようとも、あるいは、現在であろうとも、過去であろうとも、未来であろうとも、そこに確実にbeとして存在しているのであって、残念ながら......と言うよりも、当然ながら、その姿が私たちの目からは遠ざけられている、そのような神秘(ミステリー)のことであったから。

その意味において、この老人は物語の中で、自分のことを「冥界の役人」と称し、生きている人間――要するに、今を生きることと引き換えに、かつて生きておらず、そして、やがて生きていない人間の、もっぱら「結婚の文書」を管理するのが仕事である、と言ってはいるが、それは飽くまで、この老人の言っていることに過ぎず、彼が読んでいるとされる「冥界の書物」も、彼が袋の中に入れており、将来の「夫と妻の足をつなぐ」と言っている「赤い縄」も、はたして眉唾(まゆつば)でないのかどうか、保証の限りではない。試しに、この老人に充分な、この上ない「老人力」が備わっていたとすれば、いかがであろう。それでも君は、この老人の告げる「赤い糸」ならぬ「赤い縄」を信じて、将来の結婚相手と出会う日を、夢見ることができるかな?

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