ホームメッセージ成功について ――「教養」の来た道(61) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

成功について ――「教養」の来た道(61) 天野雅郎

先日、我が家で今年度の......と言うよりも、すでに「4月学年始期制」では昨年度の、と置き換えた方が正解なのであるが、卒業生が集まって、恒例の「追い出しコンパ」を開いた折の話である。とは言っても、もともと「コンパ」と言うのは「コンパニー」(company=カンパニー)の略語であり、例えば『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引くと、そこには上田萬年(うえだ・かずとし)他編の『日本外来語辞典』(1915年)や、あるいは生方敏郎(うぶかた・としろう)の『明治大正見聞史』(1926年)の用例が挙げられ、語釈には「学生などが仲間どうしで費用を出しあって飲み食いする親睦会」という説明文が掲げられているから、厳密に言うと、我が家で催されたのは「コンパ」や「コンパニー」ではなくて、あくまで僕(すなわち、指導教員)の主催する「卒業祝賀会」であった次第。

でも、そのような場でも今の大学生は、ほとんど催(もよお)す側と催される側の区別がなく、実にザックバランに、自分たちの話題(要するに、内輪話)に興じるのであるから、面白い。――とは言っても、そこに臆面もなく、堂々と「内輪」(うちわ=仲間内)として加わるには、いささか(それとも、けっこう......^^;)僕は年齢も立場も違っているので、正直な所、ついつい尻込(しりごみ=後込)をして、いわゆる「引いてしまう」(これって、例えば「潮が引く」と言ったような使い方をする際の「引く」なのですかねえ?)のが通例であって、その結果、僕の顔は鏡(mirror→miracle=驚異)で見たら、きっと刻一刻と、文字どおりの「面白い」顔へと変貌を遂げて、だんだん白くなっているのだろうなあ、いや、それを通り越して、青白くなっているのだろうなあ、と嘆いていた次第。

ところで、そのような内輪話の中で、意外にも僕が興味を持ち、話の輪(ワ!)に加わることになった m(_ _)m のは、今回、このブログの表題にも掲げている「成功」についての話である。と言ったのは、どうやら今の大学生は「成功」という語が好きなのか、それとも嫌いなのか、よく僕には判断が付き兼ねるけれども、やたら「成功」という語を使いながら、彼ら(あるいは、彼女ら)は自分の人生や他人の人生を語りたがる人々のようである、と感じたからである。裏を返せば、逆に僕が大学生であった頃には、そのようにして「成功」という語を使いながら、自分の将来や他人の将来を語り合うことは、少なくとも僕自身は、していた記憶がないし、単純な話、そのような話題を持ち出し、僕が自分の「成功」や他人の「成功」を云々(うんぬん)することは、ほぼ現在でも皆無である。

と言うことは、きっと僕は「古代人」や「中世人」に違いなく、彼ら(あるいは、彼女ら)は「近代人」や「現代人」に違いない......と、このような物言いを僕が、しているのは、実は前回と同様、三木清(みき・きよし)の『人生論ノート』を僕が捲(めく)っているからに他ならない。もちろん、それは「成功について」の一篇である。――「古代人や中世的人間のモラルのうちには、我々の意味における成功というものは何処にも存しないように思う。彼等のモラルの中心は幸福であったのに反して、現代人のそれは成功であるといってよいであろう。成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものは〔、〕もはや人々の深い関心ではなくなった」。(なお、今回も引用は、君の便宜を考えて、新漢字と新仮名遣いの、新潮文庫版にしておいたので、よろしく。)

さて、この一節を読めば、まず三木清が「モラル」(道徳)の問題として、しかも、その「中心」になるものとして「幸福」と「成功」を取り上げ、なおかつ、この双方の「モラル」(moral=習慣)が近代以前(すなわち、古代と中世)と、近代以後(すなわち、近代と現代)では、大きく変化を遂げてしまったことを述べている点は、すでに君も了解済みであろう。そして、そのようにして「幸福」から「成功」へと、人間の道徳(=徳に至る道)の基準(スタンダード)が移行することにより、結果的に「近代人」と「現代人」(要するに、君や僕)は、もっぱら「幸福」ではなく「成功」に至る道を突き進むことになった訳であり......三木清の表現を借りれば、ただ「成功」への「直線的な向上」を目指し、その道を邁進することになった訳である。もう少し、その辺りの断章を引いておこう。

 

成功というものは、進歩の観念と同じく、直線的な向上として考えられる。しかるに幸福には、本来、進歩というものはない。

 

成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。

 

他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を伴い易い。

 

例えば、仮に君が「大金持ち」や「中金持ち」や、あるいは「小金持ち」の家に生まれた、やんごとなき家柄の「おぼっちゃま」や「おじょうちゃま」であったとして、それを君は「幸福」であるとか、反対に「不幸」であるとか、見なすのであろうか? 多分、見なさないのではなかろうか。理由は簡単で、そのこと自体は本質的に、君の「幸福」や「不幸」とは無関係の事態であるし、それどころか、そのことで君が幾多の苦労を強いられ、夜な夜な、不安で、不安で眠られぬ夜を過ごすことも、おそらく一生涯、ひいては君の死後までも、ずっと君に付き纏(まと)う宿題となるからである。まあ、それを承知の上で、それでも君が「大金持ち」になりたいのであれば、それは君の自由であるけれども、そのような自由と引き換えにしても、ほぼ、なりえないのが「大金持ち」なのであった。

もっとも、このようにして「大金持ち」になることを目指して、君が弛(たゆ)まぬ努力を続けるのであれば、それは決して、悪いことではないし、むしろ結構なことである。実際、三木清も「一種のスポーツとして成功を追及する者は健全である」と言っている。なぜなら、もともと「成功」とは「スポーツ」(sport)のように、その「過程」(process=前進)をこそ楽しむべきものであり、その意味において、もともと「成功」が「人生に本質的な冒険に属する」ことは、疑いようのない事実であったから。例えば、この「冒険」(adventure)という語を遡り、その起源にまで辿り着くと、そこに姿を現すのは何と、キリストの「降臨」(Advent)であったように。――「成功のモラルはオプティミズムに支えられている。それが人生に対する意義は主としてこのオプティミズムの意義である」。

が、そのような「オプティミズム」(optimism=最善主義)は、多くの場合、下手をすると「成功主義」に姿を変える、危険性をも兼ね備えている。論より証拠、そのような「成功主義者」が往々にして、そもそも「生きること」は「冒険」である(!)という、有体(ありてい)に言えば、この「人生」の「真理」を会得することが叶わず、やがて自分自身が運好く、その「成功」を手に入れた暁(あかつき)には、逆に「部下を御してゆく手近かな道」として、今度は「彼等に立身出世のイデオロギーを吹き込む」のに躍起になる......そのような憐れむべき「成功主義者」を、君や僕は身の回りで、嫌(イヤ)と言うほど、目にすることが出来るはずである。要するに、そこには一人の人間として、身に付けなくてはならないはずの、何かが欠けている。――さて、それは一体、何でしょう?

 

純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。しかし成功はそうではない。エピゴーネントゥム(追随者風)は多くの場合〔、〕成功主義と結び附いている。

 

近代の成功主義者は型としては明瞭であるが個性ではない。

 

個人意識の発達した現代においては却って、型的な人間は量的な平均的な人間であって〔、〕個性的でないということが生じた。現代文明の悲劇、或いは〔、〕むしろ喜劇は、型と個性との分離にある。そこに個性としては型的な強さがなく、型としては個性的な鮮(あざや)かさのない人間が出来たのである。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University