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嫉妬について ――「教養」の来た道(62) 天野雅郎

さて、今回の表題(嫉妬について)を見て、このブログの続きを君が読みたくなったのであれば、さしずめ君は、この「嫉妬」という漢字が読めた(^O^)ことになる。が、この漢字を「シット」と読むのは、けっこう難しいことなのではなかろうか、と僕は思うのであるが、君は、どのように思うかな? 理由は簡単で、この「嫉妬」という語以外に、おそらく日本人が「嫉」(シツ)や「妬」(ト)という漢字を使い、何かを表現することは、ほぼ皆無であったはず。と言うことは、それほど珍しい、ほとんど使わない漢字を、この漢字に限って、かなり多くの日本人は使い、まさしく君のように、この漢字の読み書き力(literacy=識字力)を身に付けている訳である。もっとも、それでも結果的に、この漢字が読めても、この漢字が書けない日本人は、圧倒的に大多数かも知れないけれども。

さて、と僕は繰り返すが、そのような「嫉妬」という語に対して、これまで日本人は異常なまでの(!)と評しても構わない、関心や興味を抱き続けて、今に至る。実際、今回の、この一連の文章(「教養」の来た道)の表題を見て、その続きを読み始めている君は、ひょっとすると自分が、かなり嫉妬深い人間であると思っているのかも知れないし、あるいは目下、君の心の中には「嫉妬の炎」がメラメラと燃え上がっているのかも知れない。それとも、逆に君は「嫉妬」という語の字面(じづら)に惑わされ、愚かにも「嫉妬深き者よ、汝の名は女なり」と、まったく事実に反した、嘘八百(うそ・800)の妄想に取り憑(つ)かれているのかも知れない。ともかく、いずれにしても君が、これまで過ごしてきた人生において、この「嫉妬」という語と無縁であった可能性は、ほぼ絶無であろう。

要するに、それほど「嫉妬」という語は日本人(おそらく、君や僕)の周囲に、ごく有り触れた形で存在しているし、君や僕が、その気に(?)なりさえすれば、いつでも「嫉妬」という語と付き合うことが出来そうな気が、してこないではない。が、それならば君が、この「嫉妬」という語の意味を誰かに訊(き)かれ、それを説明しなくてはならないとしたら、それを君は、いわゆる「朝飯前」(あさめし・まえ=before breakfast)に、やってのけることが出来るのか、どうか......より英語(English)風に言えば、ちょいと「一切れのケーキ」(a piece of cake)を口に運ぶような調子で、それを楽々と熟(こな)すことが出来るのか、どうか――おそらく君は、答えに窮してしまうのではあるまいか。

そこで僕は、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引いて、その「嫉妬」の語釈を、まず君に紹介しておくことにしよう。すると、そこには「自分より〔、〕すぐれたものを〔、〕うらやんだり〔、〕ねたんだりする気持。やきもち。ねたみ。また、自分の愛する者の心が他に向くのを〔、〕うらみ憎むこと。りんき」とあり、最後の「りんき」は漢字で書けば「悋気」となるけれども、用例には平安時代中期の天台宗の僧侶で、恵心僧都(えしん・そうず)こと源信(げんしん)の『往生要集』(985年)が挙げられている。と言うことは、この語は元来、私たちの国に仏教用語として取り入れられ、取り込まれるに至った語のようであって、その背後には仏教に固有の「女性嫌悪」(ミソジニー)も垣間見え、この語が日本人の心の中に定着するに至った経路も、分かるような気がしてくる。

とは言っても、ふたたび『日本国語大辞典』によると、この「嫉妬」という語は古く、もともと中国の最古の詩集で、あの、孔子が撰者とも伝えられている『詩経』(ああ、この文言を何度、これまで僕は繰り返してきたのであろう......^^;)にまで辿り着く語のようであるから、これを安易に仏教と結び付け、やたら仏教の「女嫌い」(misogyny=misos+gyne)を喧伝するのも、眉唾物(まゆつばもの)であるのかも知れない。むしろ、このような「女嫌い」は結果的に、仏教であれ儒教であれ、それどころか、キリスト教であれイスラム教(イスラーム)であれ、いわゆる家父長制(patriarchy)の社会が産み出した、あらゆる「宗教」に固有の、抜き難い傾向であり、その上に、このような「女嫌い」の裏返しには「女好き」まで付き纏(まと)う、実に困った代物(しろもの)なのである。

まあ、そのような大袈裟(おおげさ=巨大な法衣)の話は、ここでは棚上げにして、僕自身は経験上、いたって単純に、とうてい「嫉妬」が女性的な感情であることを容認しえない側である。――とは言っても、僕は別段、逆に「嫉妬」を男性的な感情である(!)と主張したい訳ではなく......しばしば、そのような誘惑に駆(か)られることが、ない訳ではないけれども、はなはだ折衷的(eclectic=選択的)に、すべての人間は「嫉妬」という感情を兼ね備えており、それが男性的な姿を取る場合もあれば、女性的な姿を取る場合もある、という程度の認識であり、言ってみれば、高(たか)が知れた分別(intellect=中間選択能力)を持ち合わせているに過ぎず、そこにフランシス・ベーコンまで持ち出して、人間の「嫉妬」の悪魔的性格を論(あげつら)う知性は、持ち合わせていない。

 

もし私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。嫉妬こそベーコンがいったように悪魔に最もふさわしい属性である。なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向って働くのが一般であるから。

 

――と書けば、これが再度(と言うよりも、三度)三木清(みき・きよし)の『人生論ノート』の、まさしく「嫉妬について」の冒頭の断章であることに、君は気が付いてくれている側であろうか。それとも、あいかわらず『人生論ノート』の1ページも、めくってくれていない側であろうか。まあ、どちらでも構わないけれども......と、最近、特に愛用(?)している言い回しを、僕は繰り返すが、この「嫉妬について」の一篇は、ちょうど前回の「成功について」と前々回の「孤独について」の中間(!)に位置しているから、これまで君が、この「嫉妬」という情念(passion=受難)を経験したことがなく、君の心が、この情念に一度として苛(さいな)まれたことのない、無邪気な状態ではない限り、ぜひとも君には、次のような「嫉妬について」の断章を参考にして貰(もら)いたい。

 

もし無邪気な心というものを定義しようとするなら、嫉妬的でない心というのが何よりも適当であろう。

 

どのような情念でも、天真爛漫に現われる場合、つねに或る美しさをもっている。しかるに嫉妬には天真爛漫ということがない。〔中略〕それは子供の嫉妬においてすら〔、〕そうである。

 

嫉妬は〔、〕平生は「考え」ない人間にも「考え」させる。

 

嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に対して起る。だが〔、〕その差異が絶対的でなく、自分も彼のようになり得ると考えられることが必要である。全く異質的でなく、共通なものが〔、〕なければならぬ。しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。嫉妬が〔、〕より高いものを目差しているように見えるのは表面上のことである。それは本質的には平均的なものに向っているのである。

 

嫉妬は性質的なものの上に働くのでなく、量的なものの上に働くのである。特殊的なもの、個性的なものは、嫉妬の対象とはならぬ。嫉妬は他を個性として認めること、自分を個性として理解することを知らない。一般的なものに関して〔、〕ひとは嫉妬するのである。

 

このようにして読み進めてくると、なぜ三木清が『人生論ノート』の中で、この「嫉妬について」の一篇を、ほかならぬ「孤独について」と「成功について」の間に差し挟んでいるのかも、分かってくる。実際、君や僕が一人の人間として、当然のように重要視(それどころか、最重要視)し、しかも、それを事あるごとに、学校においても職場においても、恋愛においても結婚においても、繰り返し求められるのは「個性」である。が、そのような「個性」が反対に、君や僕には最大の難問となり、最高の難関となりうる時代に、どうやら三木清と同様、君や僕は生きているようである。――とすれば、そのような「個性」を産み出し、そのような「個性」を育むことに歯止め(ブレーキ)を掛ける要因が、君や僕の生きている時代には、確実に存在することになる。それは一体、何でしょう?

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