ホームメッセージ瞑想について ――「教養」の来た道(64) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

瞑想について ――「教養」の来た道(64) 天野雅郎

例えば君が、ある誰か、分かりやすい例を挙げれば、彼(すなわち、彼氏)や彼女(彼女氏?彼女史? 彼女子?)と話をしている時に、その誰か......今回は一応、彼の方にしておくけれども、その彼(boyfriend? husband? lover?)が何と、急に瞑想(!)に耽(ふけ)り出し、君との会話(conversation? dialogue? talk?)を中断してしまったとしたら、それを君は、どのように受け止めるのであろう。おそらく、我儘(わがまま)であるとか、気紛(きまぐれ)であるとか、あるいは「自己中(ジコチュウ)」や「KY(ケーワイ)」であるとか、そのような反応が大勢を占めるのではなかろうか。――と言った次第で、僕は今回も君を相手に、三木清(みき・きよし)の話を続けたいのであるが、困ったことに、実は彼(三木清)とは、そのような人物でも、あったらしいのである。

とは言っても、ひょっとすると君は昨今の、いかにも今風の若者らしく、例えばデート(date=約束!)の最中に、平然と手もとの携帯電話(「ガラパゴス携帯」)や、スマートフォン(使ったことも、触ったこともないので、よく分からないけれども、これって、どうして「スマフォ」と略さずに「スマホ」と略すのですか?)を弄(いじ)り出し、そのことに熱中する余り、目の前の彼や彼女のことは置き去りにしてしまう、驚くべき能力の持ち主では、ありませんよねえ......。まあ、君も彼(あるいは、彼女)も、そのような特技を、お互いに隠し持っていて、あやしげな技(わざ=業)を披露し合っているのであれば、それはそれで、構わないのであるが、正直な所、僕個人は同好会風の人間関係が大嫌いであって、特に、馴れ合いのカップルほど嫌(イヤ=否)なものは、ないのです。

――と、このような仕様(しよう→しょう→ショー)もないことを書きたくて、僕は今回も、このブログの筆を執っている訳では、さらさら無い。が、このようなことを書き付けている内に、いささか僕が気になってきたのは、このような不可思議な人間関係と、その能力......端的に言えば、会話の途中に突如、ある種の瞑想に耽ったり、会話を中断したりする能力を、いったい何時の頃から日本人は身に付けるようになったのであろう。ことによると、それは君や僕が思うほど、新しい出来事ではなく、むしろ古い、場合によっては、この一連の文章(「教養」の来た道)の主題である、その名の通りの「教養」という語の成り立ちとも連なり合う出来事なのではなかろうか。そのような、突拍子もないことを僕は考え始めている。なにしろ、その当事者の一人こそが、三木清であったから。

とは言っても、これは別段、誰かが三木清を中傷し、そのような事態を暴露しているのではなくて――実際、そのような中傷も暴露も、この哲学者には結構、付き纏(まと)ってはいるけれども、それでも今回は、いたって正直(?)な、本人の証言に基づく話であったから、君も僕も、その点においては、安心しても大丈夫であろう。と言う訳で、そのような本人の「告白」(confession=共同認知)を、以下に『人生論ノート』から拾い上げておくことにしよう。でも、そのような「告白」の中には、驚くべきことに「大勢の聴衆に向って話している時、私は不意に瞑想に襲われることがある。〔中略〕瞑想には条件がない」という一文まで置かれていて、これって......当時、彼が行なっていた大学の「哲学」の授業の、まさしく講義時間に訪れた「瞑想」(^^;)では、なかったのでしょうか。

 

たとえば人と対談している最中に私は突然黙り込むことがある。そんな時、私は瞑想に訪問されたのである。瞑想は〔、〕つねに不意の客である。私は〔、〕それを招くのでなく、また招くこともできない。しかし〔、〕それの来るときには〔、〕あらゆるものに拘らず来るのである。「これから瞑想しよう」などということは〔、〕およそ愚にも附かぬことだ。私の為し得ることは〔、〕せいぜい〔、〕この不意の客に対して常に準備をしておくことである。

 

もっとも、このような瞑想家が逆に、最近の大学の授業からは姿を消してしまい、このような瞑想(meditation? contemplation?)に耽る教員の姿に出くわすことがなくなってしまったのを、はなはだ僕は残念に感じている。が、そのような僕の落胆ぶりは、ほとんど君には理解して貰(もら)えない性質の「ガッカリ」であるのかも知れないね。なぜなら、君の周囲にいるのは、例の「パワー・ポイント」(Power Point)を使い、使い回しの資料を、さっそうと操(あやつ)りながら、もっともらしい話をしている教員ばかりであったろうから。したがって、そのような「パワポ」(って、略すのですか?)を一度も使ったことがなく、使い方さえ知らない僕は、きっと、どこかのテレビ番組のニュース・キャスターのように、寄って集(たか)って、悪口を叩かれることになるに違いない。

なお、ここで僕は、恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引いて、君に「瞑想」という語の説明を済ませておくと、そこには「目を閉じて静かに〔、〕ある物事を考えること。眼前の境界を離れて想像をめぐらすこと」という語釈が掲げられ、この語の初出には、明治14年(1881年)の『哲学字彙』(東京大学三学部印行)が挙げられている。と言うことは、この語は元来、英語のmeditationの翻訳語として考案され、使われ出した語であって、当時、どうやらmeditationには「瞑想」と「沈思」の、二つの翻訳語が宛がわれていたことも窺われうる。また、例えばパスカルの『パンセ』が最初、私たちの国に『瞑想録』という名で紹介されるに至ったのも、このような翻訳語としての、とりわけ哲学的な翻訳語としての成り立ちを知る上では、分かりやすい例証となりうるであろう。

ところで、先刻の三木清の引用は、すでに君も察してくれているように、その名の通りの「瞑想について」の篇の、冒頭に置かれている断章であり、これは、このブログの表題の並びに即して言えば、順番に「孤独について」と「嫉妬について」と「成功について」の、その後に置かれている篇である。それぞれの篇には、ほとんどの場合、ある特定の哲学者や文学者や宗教家の名が添えられているが、今回、この「瞑想について」の篇に登場するのは、今から2500年(!)近くも前の、古代のギリシアに生きていた、あのソクラテスとプラトンであり、その中でも、とりわけ三木清はソクラテスの「瞑想」を取り上げ、それが、ソクラテスの「天与の性質」であった点と並んで、いわゆる「ミスティシズム」(mysticism=神秘主義)との、深い繋がりを有するものであった点を力説している。

 

プラトンはソクラテスがポティダイアの陣営において一昼夜立ち続けて瞑想に耽ったということを記している。その時ソクラテスは〔、〕まさに瞑想したのであって、思索したのではない。彼が思索したのは却って彼が市場に現われて誰でも捉えて談論した時である。思索の根本的な形式は対話である。ポティダイアの陣営におけるソクラテスとアテナイの市場におけるソクラテス――これほど明瞭に瞑想と思索との差異を現わしているものはない。

 

ちなみに、ここで「ポティダイア」(Potidaia)とあるのは、紀元前432年の「ポティダイアの戦い」のことであり、この戦いと、その翌年以降の「ペロポネソス戦争」にソクラテスは従軍し、その陣営において、結果的に「一昼夜立ち続けて瞑想に耽った」次第。そして、そのようなソクラテスの、片や戦場における「瞑想」と、片や「市場」における「思索」とを対比し、この二つの能力が、そろって「思想家」には必要不可欠のものである、と三木清は指摘する。と言うことは、おそらく彼が大学での講義中、突如として「瞑想」に耽った際、彼はソクラテスが立ち続けていたのと、同じ戦場に立ち尽くしていたことにもなるであろう。さて、そのようなワープ(warp)の瞬間を、君も一人の大学生として、ありふれた「パワー・ポイント」よりも、はるかに見てみたい、とは思わないかな?

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University