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ボランティアは、お嫌いですか? ――「教養」の来た道(66) 天野雅郎

前回、僕が急に「ボランティア」の話を始めたので、さぞかし君は、面喰(めんく)らっているに違いない。が、その点は僕も、まったく同じであって、まさか僕が、このブログの中で「ボランティア」の話を始めることになろうとは、思いも寄らなかった次第である。と言うことは、なぜ僕が「ボランティア」という、どう見ても僕には似つかわしくない(と、僕には思える)話を始めたのかを、君に説明しておくのが得策であろう。......と言う訳で、いささか前置きが長くなってしまったけれども、実は先日、ひょんなことから僕は、和歌山大学の特別講義(「ポスト3.11の思考と前進」)に召集され、あれこれ「ボランティア」について喋った上に、恐るべきことながら、それがラジオ(ラヂオ?レディオ? 壊れかけのRadio~♪)番組に収録にされる、という窮地に立たされたのである。

――と、このような個人的(individual? personal? private?)な、四方山(よもやま)話で恐縮ではあるが、僕自身は通常、夜の9時頃に眠りに就き、朝の3時頃に目を覚ます......という、十年前の僕であれば信じ難い生活を、この十年来、続けている。したがって、今の僕にはラジオを聴く時間も、テレビ(テレビジョン?テレヴィジョン? →テレヴィ?)を視る時間も、我が家では皆無であり、テレビを視る機会は、どこかテレビの置いてある場所に出掛けない限りは生じないし、ラジオを聴く機会も、振り返れば、一時的に小学生の頃、アマチュア無線に熱を挙げたり、手作りのラジオを拵(こしら)えたりしていた時期や、中学生や高校生の頃、ご多分に洩(も)れずに深夜放送のラジオ番組に耳を傾けていた時期以外には、まともにラジオと向かい合った記憶は、絶無に等しい。

そのような僕が、結果的にラジオ番組の収録に顔を出す(声を出す?)こと自体が、文字どおりの「青天の霹靂」であって、幸い、その場に霹靂(ヘキレキ=かみなり→神鳴→雷)の音が轟(とどろ)くことはなかったが、何やら雲行きは怪しく、この日に限って、けっこう肌寒い風が和歌山大学を吹き抜けていたなあ......と、当日は幾分、心神喪失状態(insanity? irresponsibility? lunacy?)に陥っていた僕は記憶しているけれども、その分、僕が正気を失い、無責任な発言を繰り返したとしても、それは多分にローマ神話の月の女神(Luna)の、お導きに従った迄(まで)であるから、ご容赦を願いたい。――と、このようなことを書き記しても、その場に君がいた訳でもなく、君が僕と同様、ラジオ番組を聴く習慣を持っていないのであれば、いっこうに心配しなくて結構であるが。

ただし、それでも僕が、その場において言いたかったことがあるとすれば、それは単純に「ボランティア」という、この語の使い方や、この語の作法の問題であり、言ってみれば、この語のマナー(manner=手の動き)やエチケット(etiquette=覚え書き)の問題であって、この点については、すでに前回、君に伝えておいた通りである。要するに、この語は元来、志願兵や義勇兵を意味する「軍事用語」(ミリタリー・ターム)であり、その限りにおいて、この語が自分の口からポンポンと飛び出すことに、僕は抵抗を覚えざるをえないし、この語を君や僕が仕方なく、どうしても使わざるをえないのであれば、その際には君や僕の、あくまで自発的な意志の現れとして、これを「ボランタリー」(voluntary)という語あたりまで、押し戻してみては如何(いかが)であろう、という点であった。

そうすれば、それは音楽の「即興曲」や、あるいはスポーツの「自由演技」とも重なり合い、より広範な人間の行為や活動を指し示すことにも、なりうるのではあるまいか......と、このような他愛(たわい)のないことを、僕は言いたかったに過ぎない。でも、そうすることで、結果的に「ボランティア」という語が戦争や、戦場や戦禍の中を駆け巡る語とはならず、むしろ君や僕の、ごく普通の、普段の生活の中に入り込み、そのような生活(すなわち、日常生活)を産み出し、あらかじめ支えている語になると共に、そこから次第に、この「ボランティア」という語自体が姿を消していくのであれば、それは「ボランティア」という語にとっても、とても幸運な、死語(dead language)の仲間入りを果たすことになりうるのではなかろうか。例えば、以下の「伝統的な日本の社会」のように。

 

伝統的な日本の社会は、基本的にはボランティアが支えていた。町内や村内の人の全部が、何らかの形でのボランティアだったといっても大げさではない。お金がなくても〔、〕それなりに楽しく気楽に生きていられたのは、そのせいでもあった。〔中略〕みんながボランティアだった時代は、ボランティアであることは人間であることと同じ意味だったから、そのことを表現するための特別な用語はなかった。わざわざ特別な言葉を使う必要も意味もなかったのである。

 

さて、いかがであろう。仮に君が、このような「伝統的な日本の社会」に興味を持ち、そこに「ボランティアという言葉も運動も」ないことを不思議に思うのであれば、また、このような「ボランティア」という「とってつけたようなカタカナ言葉が日常的になって〔、〕特別な活動が必要となり、それを皆が〔、〕もっともだと感じる社会」に対して疑問を抱き、そのような社会は逆に、むしろ「多くの人が自主的に生きられない社会」なのではなかろうか、と感じ出しているのであれば、ぜひ君には、これらの引用文から始まる本(石川英輔・田中優子『大江戸ボランティア事情』1996年、講談社)のページを開くことを勧めたい。そして、そのような受動学習(passive learning=熱中学習)の後にこそ、君には能動学習(active learning)が待ち構えていることを、僕は君に、伝えたい。

なぜなら、そもそも能動的(アクティブ? アクティヴ?)であることは、その前提に必ず、受動的(パッシブ? パッシヴ?)な状態を伴い、伴わざるをえないのであって、それを伴わない行動(act→action→activity)は、単なる衝動的な、盲目的な行動に過ぎないからである。なるほど、そのような受動的な状態は、君の若い目には一見、消極的な状態に映り、何だかショボイ(^^;)ものに見えてしまうのかも知れないね。でも、そのような消極的(negative)な状態(すなわち、ネガ=陰画)の上に、逆に積極的(positive)な姿や形や、像(すなわち、ポジ=陽画)は浮かび上がるのであって、それは君や僕の、あらゆる行動に際しても、まず表現(expression=外に押し出すこと!)よりも先に、印象(impression=内に押し込むこと!)が求められるのと、まったく同様の事態である。

ちなみに、先刻の「伝統的な日本の社会」で生まれ、育った、いわゆる「情(なさけ)は人の為(ため)ならず」という金言(maxim)を、君は知っていたであろうか? 知っていたのであれば、それが「情を掛けると、その人の為にならない」という意味ではなく、むしろ「情を掛けるのは、その人(要するに、他人)の為ではなく、その情が巡り巡って、やがて自分や自分の周囲に、好い報(むくい←向く)を齎(もたら)す」という意味であることを、しっかり君には受け止めて貰(もら)いたい。そうすれば、きっと君は「ボランティア」や、あるいは「ボランタリー」という語の向こう側に、人間の自発性や自主性や、それどころか、人間本来の「バランス感覚」や、相互依存の関係(「お互い様」)や、何よりも、君や僕の「弱さ」を許容し合える社会を、垣間見ることが叶うに違いない。

 

自主的というのは、自立的という意味でも自力的という意味でもない。心から自然に、人間および人間以外の生物や環境とともに生き、本来われわれに備わっているバランス感覚によって、助けたい時に助け、助けられたい時に助けてもらえる社会である。助けを必要としている自分の弱さを〔、〕あずけられる社会である。

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