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学生の知能低下について ――「教養」の来た道(69) 天野雅郎

学生の知能低下について――と題する、世にも恐ろしい(^^;)一文を、三木清(みき・きよし)が雑誌(『文藝春秋』)に掲載したのは昭和12年(1937年)5月のことであるから、今から数えて、まるまる77年前のことになる。なお、この一文(「學生の知能低下に就いて」)は、同年、題名を「學生に就いて」と......要するに、過激な「知能低下」を削り、穏健な形に改め、三木清自身が編集した『現代學生論』(矢の倉書店)にも収められることになる。ちなみに、掲載雑誌の『文藝春秋』の方は、大正12年(1923年)に菊池寛(きくち・かん)が創刊し、この時点でも、すでに15年目を迎えた老舗(しにせ)の雑誌であったが、おそらく君には、昭和10年(1935年)以降に始まった「芥川賞」(正式名称「芥川龍之介賞」)の、受賞作の発表の場と言った方が分かり易いのかも知れないね。

また、その第1回の受賞者が、石川達三(いしかわ・たつぞう)であり、その受賞作が『蒼氓』(そうぼう)であることも、どこかで君は聞いたことがあったのではなかろうか。それならば、この『蒼氓』という名が文字どおりに「青く茂る民」の意であり、それが具体的には、日本からブラジルへと渡った「移民」のことを指し示している点も、あるいは、この小説が翌々年(すなわち、昭和12年)になって映画化をされ、それを監督したのが熊谷久虎(くまがい・ひさとら)である点も、君には知っておいて貰(もら)えると有り難い。さらには、この年(昭和12年)に石川達三が、いわゆる「日中戦争」の勃発した中国へと赴き、例の「南京事件」に取材をした『生きてゐる兵隊』を書き上げ、それが翌年(昭和13年)になって、掲載雑誌(『中央公論』)の発売禁止処分に至った点も含めて。

と言う訳で、今回は久し振りに――厳密に言えば、このブログの第64回(「瞑想について」)以来、僕は君に、三木清の話をする心算(つもり)である。が、今回は三木清の、これまでの『人生論ノート』とは違って、かつて岩波書店から刊行された、彼の全集の第13巻(評論Ⅰ)の中から、この「學生の知能低下に就いて」を引いている。ただし、僕の手許にあるのは旧版の、昭和42年(1967年)に出版された全集(全19巻)であって、目下、これに拾遺の巻を加えた、新版の全集(全20巻)が、同じ岩波書店から刊行されているから、仮に君が『三木淸全集』(文字表記は、清ではなく、淸なのです)を読む気を起してくれたのであれば、おそらく君は図書館で、新しい『三木淸全集』を繙(ひもと=紐解)くこと(......ああ、何と言う、心地好い響きなのであろう)が、できるであろう。

ところで、そもそも君は「学生の知能低下」と言う場合の、その「学生」が、小学生や中学生や高校生のことではなく、大学生のことであるのを、理解してくれているに違いない。けれども、最近、僕は君や、君の周囲の大学生(要するに、和歌山大学生)を見ていて、ひょっとすると昨今の大学生の相当数は、自分のことを「学生」であるとは意識しておらず、自覚していないのではなかろうか、と感じることが度々である。まあ、いくら自分が「学生証」を持っていて、毎日、昼休みには「学生食堂」でランチを食べ、電車やバスには「学生割引」(いわゆる、学割)で乗り、同じ特権を行使して映画館や、時には美術館や博物館やコンサート・ホールには出掛けていても、それだけで、自分が「学生」であることを意識し、自覚することが出来るのか、と問われれば、それは疑問であろう。

でも、そうであるからと言って、例えば君や僕が、お互いの頭にヘルメットを乗せ、ゲバ棒(=ゲヴァルト〔暴力!〕棒)を担(かつ)いで、1960年代の「学生運動」に参加することが叶う訳でもないし、せいぜい君や僕には1970年代の、バンバンのヒット曲(『いちご白書』をもう一度)を、カラオケ(=空〔から〕のオーケストラ、これまた1970年代用語)で歌うのが、関の山であろう。――「僕は無精ヒゲと髪をのばして/学生集会へも時々出かけた/就職が決って髪を切ってきた時/もう若くないさと/君に言い訳したね~♪」 その意味において、すでに君や僕の周囲から、このような「学生」に纏(まつ)わる言葉の数々は、それが「学生街」であっても「学生服」であっても、とっくの昔に様変わりをしたり、死語(dead language)となったりしてしまっているのが実情であろう。

と言うことは、どうやら「学生」であることが自分自身にとって、はなはだ難問とならざるをえない時代に、君や僕は生きているらしい。......と僕が言い出すと、いかにも君は怪訝(ケゲン)な、不審な顔をしているのではあるまいか。なるほど、君が「学生」をしている時代(すなわち、2010年代)と、僕が「学生」をしていた時代(すなわち、1970年代)の間には、多くの面で大きな隔たりがある。例えば、現在の日本には780の大学があり、そこに通っている「学生」の数は、大学院生も含めると、合わせて290万人に近い数字のようである。これに対して、1970年代の大学の数は、その半分程度(1970年→382、1980年→446)に留まっており、これに応じて「学生」の数も、現在の半分程度(1970年→約140万人、1980年→約180万人)に留まっている(国勢社『日本国勢図会』参照)

が、これは君と僕の、あくまで2010年代と1970年代の、比較の結果であって、ここに今回、話題にしている三木清の時代――要するに、彼が「學生の知能低下に就いて」を書いた1930年代と、それから、ついでに彼自身が「学生」(學生?)であった1910年代を比較の対象に加えると、そこには信じ難い......とは言っても、君や僕が少しでも日本の教育制度や、その歴史を学習すれば、はなはだ当然の結果が導き出されてくる。結果から言うと、例えば1930年代と1910年代の、それぞれ中間地点を選び、同じ『日本国勢図会』の数字を紹介しておくと、1935年(昭和10年)は大学の数が45であるのに対して、1915年(大正4年)の大学の数は4であった。また、1935年は「学生」の数が約7万人(71,600人)であるのに対して、1915年の「学生」の数は約1万人(9,700人)であった次第。

さて、このようにして振り返ると、三木清が「學生の知能低下に就いて」の冒頭で用いている、いわゆる「事変後の学生」(原文:事變後の學生)という、当時、流行語となった言い回しの意味も、はっきりしてくる。それどころか、このような言い回しによって、当時の「学生」が結果的に、政治的にも経済的にも、社会的にも文化的にも、どのように困惑し、困窮した、要するに、困(こま=籠→こも)った状況に置かれていたのかが、浮かび上がると共に、きっと君も三木清の書いた、以下の「事変後の学生」の説明文(君のために、あえて旧漢字と旧仮名遣いを改めて、新漢字と新仮名遣いに直しておいたので、よろしく)を読めば、それが80年近い歳月を隔てながら、ほとんど君の置かれている立場と似かよった、他人事(ひとごと)でない状況であることも、よく分かるはずである。

それは〔、〕云(い)うまでもなく満州事変後において高等の学校へ入った学生のことである。今年あたりから大学なども殆(ほとん)ど全部〔、〕かような事変後の学生によって占められることになるのであるが、最近数年間は事変前の学生と事変後の学生とが次第に交替していった時期であった。その間において満州事変を境として学生が〔、〕かなり明瞭に二つの層に分れることが観察され、「事変後の学生」という名称が生じたのである。事変後の学生は〔、〕いわば一つの「世代」を形作り、一定の特徴によって以前の世代から区別される。この世代の形成には満州事変、その後における日本の社会的並びに政治的情勢、国家の文化政策、特に教育政策が重要な影響を及ぼしている。この事情を無視して今日の学生を論ずることはできない。

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