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四度、学生の知能低下について ――「教養」の来た道(72) 天野雅郎

さてさて、また今回も性懲(しょうこり)も無く、実に四度の「学生の知能低下について」の話であるが、この「四度」という語を音読すると「シド」になり、訓読すると「よたび」になって、これを一般に「よ・ド」や「よん・ド」と読むのは、言ってみれば和漢折衷(和語+漢語)の、変梃(へんてこ→へんてこりん、へんてこらい、へんてけれん、へんちきりん、へんちきちん、へんちくりん......)な読み方であることを、君は気が付いていたであろうか。まあ、気が付いていたとしても、例えば「和歌山」を音読すれば「ワカサン」や「ワカセン」になり、訓読すれば「やまとうたやま」や、場合によっては、そこに「やわらぎ」や「なごみ」や、あるいは「にき」や「にぎ」の語を冠することになるのであるから、それでは一層、変梃になるのは必定であり、何とも日本語は奥が深い。

と言った枕(まくら=真座)で、今回も「学生の知能低下について」の話を始めると、まず前回、僕が君に出しておいた「宿題」から、片付けておく必要がある。が、この「宿題」という語も、その起源を遡ると、おそらく漢語に辿り着くのであろうけれども、この語は結果的に、私たちの国が近代以降になって、新しく作り出した翻訳語であり、その背後には、例えば英語のホームワーク(homework=自宅労働)が控えているし、その用例に『日本国語大辞典』(2006年、小学館)が挙げているのも、龍胆寺雄(りゅうたんじ・ゆう)の『放浪時代』(1928年)であるから、ひょっとすると、この「宿題」という語は20世紀以降、昭和に入ってから産み出された語であったのかも知れない。そうすると、この語を例えば、三木清(みき・きよし)は「学生」の時分に使っていたのか知らん......。

そのような疑問を持ちながら、今回も彼の「學生の知能低下に就いて」を繙(ひもと)くと、そこには「キング学生」という、はなはだ興味深い語を見つけ出すことが出来る。――とは言っても、この語を君は今まで、見たことも聞いたこともなかったのではあるまいか。なにしろ、この「學生の知能低下に就いて」を読むまでは、このような語を僕自身も皆目、知らなかったのであるから。したがって、この語の存在を君が知らなかったとしても、それは当然の事態であろうし、そこから熱心に、さっそく君が手許の辞書を引いてくれたとしても、この語を発見することが出来る可能性は皆無であろうから、この場では僕が君の辞書代わり(生き字引?)になって、この「キング学生」の説明を済ませておくことにしよう。でも、その前に肝心の、三木清の該当箇所を引いておくのが先である。

或(あ)る大学生の話によると、事変後の高等学校生は殆(ほとん)ど何等の社会的関心も持たずに〔、〕ただ学校を卒業しさえすれば好いというような気持で大学へ入ってくる。〔中略〕かようにして所謂(いわゆる)「キング学生」、即ち学校の課程以外には「キング」程度のものしか読まない学生の数は次第に増加しつつあると云われる。〔中略〕学校の課程以外の勉強に「無駄な」労力を費(ついや)すことを〔、〕なるべく避けようとする功利主義から、或(ある)いは社会的関心を持つというような危険なことから〔、〕なるべく遠ざかろうとする現実主義から、彼等は「キング学生」になるのである。

やれやれ、この一文を読むと、別段、大学生が「社会的関心」を持たなくなったのは、昨今に始まった傾向ではなく、すでに1930年代から延々と、もう80年以上に亘って、いわゆるノンポリティカル(nonpolitical=非政治的→「ノンポリ」)な学生ならぬ、ノンソーシャル(nonsocial=非社会的→「ノンソー」?)な学生は存在していたのであり、むしろ大学生が「社会的関心」を持つこと自体が、ひょっとすると私たちの国では特殊な、それこそ「ノンポリ学生」が流行語となった1968年(昭和43年)のように、いたって特異な現象ではなかったのか知らん、とさえ思われてくる。裏を返せば、そのような「ノンポリ学生」や「ノンソー(?)学生」が非難され、肩身の狭い思いをするに至るのは、はなはだ限定的な、時代の雰囲気の為せる業(わざ、音読→ゴウ)なのではあるまいか。

と言ったのは、例えば僕が君や、君の周囲の学生(すなわち、和歌山大学生)を見ていて、正直な所、何と昨今の大学生は「社会的関心」が豊富で、とにかく自分や、自分の周囲のことが気になって、気になって仕方がないらしい、と感じられるからである。が、それは三木清の言うような「社会的関心」ではなく、むしろ「社交的関心」と言い換えた方が、より適切なのかも知れない。その点において、それは英語で表現すれば、ソーシャルな関心(interest=中間存在)ではなく、ソーシャブル(sociable)な関心であり、譬(たと)えて言えば、同類の動物や植物が群れを成し、集団的志向性を顕著に示す折の、群生的(gregarious)な関心であったり、あるいは、仲間同士でワイワイと、やたら一緒になって騒ぎ出す、懇親的(convivial)な関心であったり、するのかも知れないけれども。

ちなみに、先刻の引用の中で三木清が、このような「社会的関心」の危険性(!)について触れていたのは、言うまでもなく、この当時の「社会的関心」が端的に、そのまま社会主義的(socialistic)な関心に結び付く、これまた当時の、特定の時代の要請(request=探求)を背景とした発言であったからである。そのことを踏まえるならば、どのような時代にも結果的に、その時代の「社会的関心」の代表的な、分かりやすい形は存在している訳であり、それが「社会主義」(socialism=「友人」至上主義)という形を取る場合もあれば、三木清の批判する「功利主義」(utilitarianism=「実益」至上主義)や「現実主義」(realism=「成功」至上主義)という形を取る場合もあれば、昨今のSNS(social networking service)のように、多くの「ソーシャル疲れ」を産み出すケースもある。

ともかく、どのような「社会的関心」を持つのかは、それほど容易に、それぞれの個人が取捨したり、選択したりすることの叶う、言ってみれば、自由な対象ではなく、ほとんどの場合、それぞれの時代の趣味や嗜好や......はっきり言えば、君や僕の融通の利(き)かなさや、思い切りの悪さや、君や僕が周囲に対して、しばしば非難や悪口を発し続けているにも拘らず、ついつい愚図愚図(グズグズ)と、周囲への依存を繰り返す、どうにも困った人間性に由来するのではあるまいか。そして、それが三木清の批判する、例の「事変後の学生」の場合には、いわゆる「キング学生」という、その名の通りに、当時、大日本雄弁会講談社(現:講談社)の刊行していた大衆娯楽雑誌(『キング』)しか読まない、いかにも大学生らしくない大学生を、大量生産する羽目に陥ってしまったようである。

もっとも、このような大学生が姿を見せたのは、いたって時代にマッチした、当時の最先端の流行(ファッション)でもあったはずである。なぜなら、当時の大学生が唯一の愛読書(?)とした『キング』とは、その名に相応しい、日本の大衆娯楽雑誌の王様(キング)であり、この雑誌によって、はじめて私たちの国には出版史上、発行部数が100万部(ミリオン・セラー!)を超える雑誌が出現することになったからである。しかも、この雑誌の成功が引き金となって、講談社の音楽部門が「キングレコード」と名付けられたり、それが折しも、昭和6年(1931年)の「満州事変」の勃発の年であったりしたことを想い起こすならば、このような大衆娯楽社会や大衆消費社会の真直中(まっただなか)に、まさしく大衆教育社会の申し子として、彼ら(「キング学生」)は、登場したのである。

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