ホームメッセージ「父の日」に際して ――「教養」の来た道(74) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

「父の日」に際して ――「教養」の来た道(74) 天野雅郎

今日(6月15日)は、いわゆる「父の日」である。が、この語を例えば『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で引くと、そこには「父親の日ごろの労苦・慈愛をたたえ、感謝をささげる日。六月の第三日曜日を当てる。アメリカのJ=B=ダッド夫人がこの日、父の墓に白いバラ(原文:ばら)の花をささげたことによるという」――という説明文が置かれているけれども、子細に言えば、このような出来事を出発点として、アメリカで「父の日」の行事が始まるのは、今から百年以上も前の、1910年(明治43年)のことであったのに対し、これが結果的に「六月の第三日曜日」に当てられるのは、それから半世紀以上も時間が経った、1966年(昭和41年)のことであり、また、それが正式にアメリカの記念日(Father's Day)となるのは、さらに六年後の、1972年(昭和47年)のことである。

要するに、このようにして「父の日」の歴史は浅く、ご本家のアメリカでも、それは四十年余りの歴史しか持たない。ましてや、それが分家の日本において一般化をし、普及するに至るのは、せいぜい1980年代以降の出来事であったはず。その意味において、すでに「母の日」(Mother's Day)が1914年(大正3年)以降、ちょうど今から百年前に、これまたアメリカで記念日となり、それが「五月の第二日曜日」に宛がわれてきたのとは、大きな開きがある。とは言っても、そもそも「母の日」にしても「父の日」にしても、それが「五月の第二日曜日」や「六月の第三日曜日」に宛がわれるのは、言ってみれば一人の「母」の、あるいは「父」の、たまたま記念日が5月や、誕生日が6月に当たっていたことに起因しているのであって、それ以上の理由はない、と言うのが正直な話である。

さて、そのような「父の日」に際して、今回も僕は、ローベルト・シューマンの父である(と言うよりも、父となる)アウグスト・シューマンの話を君に聴いて貰(もら)いたい、と思っている。また、その話を通じて、いささか突飛(トッピ→「突飛」って、どういう成り立ちの語なのでしょう......?)ではあるが、かつて日本人が万葉仮名を使い、この父(ちち)という語(すなわち、日本語)を「知知」(ちち)と表記し、そのことで、どのような役割を「父」という語(と言うよりも、この語の担い手)に求めていたのかを、君に伝えたい。なぜなら、この「父」という語を音読し、そのまま中国語音(フ)で用いる場合と、例えば英語でfatherという言い方をする場合では、そこに自(おの=己)ずから異なる、違った「父」のイメージが浮かび上がってくるのは、必定であったから。

もっとも、当のアウグスト・シューマン自身は、息子(むすこ=生す子)のローベルトの側から言えば、彼が16歳の折(1826年)に、享年53歳の生涯を閉じるのであって、そのことで、結果的に彼が「音楽家」(Musiker)となるまでの道程(みちのり)は、幾分の紆余曲折を経ることにならざるをえなかった。なにしろ、仮に君が今でも、急に親に向かって「ミュージシャン」(musician)になりたい(^^;)と言ったら、それは畏(おそ)れ多くも「ミューズ」(Muse)様の、神の技(mousike→music)の伝承者になることであるから、やめておきなさい(!)と、君の親が一通りの、世間の常識を弁(わきま)えた人であるならば、言うに違いないからである。ましてや、この「音楽家」が生きていたのは19世紀の、いまだ前半から中盤に掛けての、160年から200年も前の時代であった。

その点で、彼の母のヨハンナが、息子の将来に「法律家」(Jurist)への道を希望したのも、当然と言えば、当然と言える。そして、その意を承(う)けて、息子の側も18歳の折(1828年)にライプツィヒ大学の法科へと入学し、その翌年には、これまたハイデルベルク大学の法科へと籍を移し、とりあえず「法律家」への道を歩き始めた......かに見えたのは、昔も今も変わることのない、いわゆる「親の心、子知らず」であったろうか。それとも、それは逆に「子の心、親知らず」(?)であったろうか。ともかく、そのような母の許に、ちょうど二十歳(はたち)になった折(1830年)に息子から送り届けられた手紙(何と、彼の人生で「もっとも重要な」手紙)には、次のような、驚くべき「十字路」の告白が書き記されていた。〔前回と同様、藤本一子『シューマン』から引いておく。〕

僕の〔、〕これまでの人生は詩と散文の二十年にわたる闘いでした。言い換えれば音楽と法律との闘いです。......しかし〔、〕ライプツィヒでもハイデルベルクでも芸術への愛着は深まるばかりでした。いま僕は十字路に立っています。そして〔、〕どこに行くのだ〔、〕との問いに身が震えるのです。僕の守護神に従うなら、それは芸術の道を指しています。......お母さんが〔、〕ご自身でライプツィヒのヴィーク氏に手紙を書き、単刀直入に、僕と僕の将来について氏が〔、〕どのように考えておられるか〔、〕お訊ねください。......この手紙は僕が書く手紙のうちで〔、〕もっとも重要なものです。

やれやれ、このようにして「子」という生き物(creature=被造物)は、いつも「親」という生き物(creator=造物主)に対して、あれこれ大袈裟(おおげさ)なことを言ったり、虚勢を張ったり、威嚇をしたり、場合によっては、逆に不安を募(つの)らせたり、するもののようである。――と言った、知った風な口が利(き)けるのは、やはり僕自身が自分の人生において、そのような「子」と「親」の双方の立場を、経験してきたからに他ならないのか知らん。そうだとすれば、ひょっとすると君は、このような手紙を受け取った「親」の側が、どのような思いを「子」に対して抱くに至るのか、よく分からないのかも知れないね。まあ、その意味において「親」と「子」の関係は、あらゆる人間関係の原点でもあり、基盤でもあることを、やがて君も、理解する機会が訪れるに違いない。

ところで、この手紙に登場する「ヴィーク氏」とは、当時、ライプツィヒでピアノ教師をし、同時にピアノ工房も営んでいた、フリードリヒ・ヴィーク(Friedrich Wieck)のことであるが、言うまでもなく、この「ヴィーク氏」の娘(むすめ=生す女)であり、彼の最高の弟子でもあり、まさしく「天才少女」(!)と謳(うた)われていたのが、やがてシューマンの結婚相手となる、クララである。年齢的に言えば、この手紙が書かれた際、クララは1819年の生まれであるから、いまだ11歳に過ぎず、片や1785年の生まれであるヴィークの方は、すでに45歳に達している。ちなみに、この頃のヴィークは先妻(要するに、クララの母)と離婚し、20歳の年の差がある、二度目の妻と再婚しており、このような親子関係の軋(きし)みから、やがてシューマンとクララの繋がりも生まれてくる。

その点で、どうやらシューマンとクララには、それぞれの「父」を巡る、複雑な感情が渦巻いていたようである。共通していたのは、お互いの「父」が息子と娘に対して、いずれも「音楽家」への道を進むことに賛同していたこと、しかし......賛同しつつも一方は、その勤勉さの余りに他界をし、一方は離婚後の娘の教育に躍起となり、言ってみれば、シューマンとクララの繋がりは、お互いの「父」のイメージが齎(もたら)した、反転した関係でもあったのか知らん、と僕は思うのであるが、どのように君は感じるであろう。それにしても、もともと人は「父」となるべく、生まれてくるのではあっても、決して「父」として、生まれてくる訳ではないから、その「父」となるべき経験自体が、多大の知性(intellect=中間選択能力)を必要とするものであったことだけは、間違いがない。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University