ホームメッセージ「音楽の退屈」について ――「教養」の来た道(80) 天野雅郎

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「音楽の退屈」について ――「教養」の来た道(80) 天野雅郎

今回も、僕が今年度から新しく始めた授業(「音楽文化論」)の話であるが、つい先日、別の授業をしていて、気になることがあったので、今回は番外編という形で、いささか趣向の異なる「音楽文化論」の話を、僕は君に聴いて貰(もら)いたい。――と言ったのは、その授業(「哲学概説」)において、たまたま副読本に『子どもの難問 哲学者の先生、教えてください!』(野矢茂樹編、2013年、中央公論新社)という本を、僕は使っているけれども、その本の中に「芸術って〔、〕なんのためにあるの?」という章があり、その章の中身を巡って、ある学生(自称「音楽」好きの学生)と、ある学生(自称「スポーツ」好きの学生)の間で、活発な議論が始まった......と言いたいのは山々(やまやま)であるが、実は、まったく議論が始まらなかったことが、僕は気になって、仕方がないのである。

まあ、このような事態は最近――と「キーボード」(keyboard=鍵盤)を叩くと、なぜか僕のパソコンは決まって、まず「細菌」という文字変換をしてしまう、何とも困った「コンピューター」(computer=共同演奏楽器)であるけれども、このような事態は、最近(さて、今度は「採金」かな......?)いろいろな場面で目に付いて、僕を悩ませている問題の中の一つである。それと言うのも、このようにして授業を通じて、あれやこれやと話題を提供し、グループ・ワーク(group work=集団労働)も積み重ねた上で――さあ、それでは議論(discussion=相互粉砕!)を、と言う段になると、アレアレ、たちまち昨今の大学生は下を向き、俯(うつむ→鬱向?)いて、まるで、どこかで借りて来た猫のように、おとなしく(大人しく?音無しく?)なってしまうのであるから、困りものである。

とは言っても、僕自身は別段、このような授業を、したくて、している訳では、さらさら無いのであって、このブログ(「教養」の来た道)でも、そのことに少し、触れておいた回(第66回「ボランティアは、お嫌いですか?」)もあるから、そのことを君も、憶えてくれているかも知れない。すなわち、僕自身は普段、ことさら人前で喋ることを好まないし、可能であれば、むしろ黙っている方を選び取りたい側である。が、そのような側であっても、と言うよりも、そのような側であるからこそ、場合によっては、昨今の僕のように人前に出て、いろいろと話をしなくてはならない状況や、てっとりばやく言えば、そのような役割を引き受けざるをえない立場は、やはり巡ってくるのである。そのことで、時には逆に、思いも寄らぬ非難や中傷の渦に巻き込まれることがあるとしても、である。

その意味において、君や僕が現在、生活を営んでいる場(要するに、近代市民社会)には、好むと好まざるとに拘らず、さまざまな言葉の「やりとり」(give-and-take)が必要であり、求められているのでもあって、少なくとも、そのような言葉の「やりとり」の場(society←societas←socius=友人、同僚、仲間......)に姿を見せる限りは、同じ意見の持ち主であっても、違う意見の持ち主であっても、それは対話(dialogue=言語仲介)の相手であり、決して暴言を吐(は)いたり、捨台詞(すてぜりふ)を言ったりして、その場を後にすることは許されないのである。――残念ながら、そのような歌舞伎役者のような振る舞いが、幾つになっても身に付いて、身から離れない、形容矛盾の大人(grown-up=成熟者)も、君や僕の周囲には数多く存在していることも、事実ではあるけれども。

さて、このような前置きで、話を本題に戻すと、僕が一番、気掛かりなのは、例えば先刻、名前を挙げた授業(「哲学概説」)において、ある学生(自称「音楽」好きの学生)が「芸術って〔、〕なんのためにあるの?」という問いを発し、言ってみれば、自分自身の得意分野(「お家芸」)である「音楽」の話をし始め、そのことを、ある学生(自称「スポーツ」好きの学生)に向けて尋ねた際、結果的に、この両者の間で議論が、ほとんど(それどころか、まったく)成り立たない雰囲気を、漂わせてしまう、という点である。もちろん、僕自身は自分が、ことさら「音楽」好きでも「スポーツ」好きでも、ない分、世の中には、とりたてて「音楽」の話に加わりたくもなければ、あるいは、興味のない「スポーツ」の話は結構、という御仁(ごじん)が存在すること自体は、充分に理解できる。

でも、それが大学の授業で、とりあえず議論(ディスカッション)をしたり、平たく言えば、ある種の「おしゃべり」(トーク)をしたり、しなくてはならない時に、かなり平然と、その会話(conversation=共同居住→意見交換)を、続ける意志のない態度を露(あらわ)にする大学生が相当数に上ることには、驚かざるをえない。また、そのような時には必ず、それは君の趣味や嗜好や、要するに、好みの問題であって、僕の好みは違っているのであるから、お話になりません、とでも言いたそうな顔をして、いかにも退屈そうに、口もとを歪(ゆが)める大学生に出くわすと、アア......これだから昨今の大学には、口やかましく「コミュニケーション力」だの「アクティヴ・ラーニング」だの、よく訳の分からない、本末転倒の語が飛び交うのであろう、と僕は頭を抱え込まざるをえない次第。

ところで、今回の表題に、僕は「音楽の退屈」という語を宛がっているけれども、これが実は、またもや吉田秀和(よしだ・ひでかず)の『千年の文化 百年の文明』(2004年、海竜社)の中から、その節題を借り受けたものであったことに、君は気が付いてくれているであろうか。この一文は、初出一覧を見ると、もともと1988年(昭和63年)の『広告批評』(7月号、マドラ出版)に掲載されたのが最初であるが、それは「音楽」が、それどころか「あらゆる芸術」や「あらゆる創造の仕事というのは、退屈なくり返しというものを避けることができない」――したがって「その退屈を避けていたら本当の楽しみは〔、〕ないんじゃなかろうか、あるいは退屈をするという〔、〕ぜいたくを持つようになることが最高の楽しみじゃなかろうか」と、文字どおりの「退屈の美学」を論じた一文である。

例えば、仮に君が「音楽」好きであるとしたら、これまで君は「音楽」に対して、どのような時に「退屈」を感じ、あるいは、どのような時に「退屈」を感じなかったのであろう。逆に言うと、仮に君が「スポーツ」好きであるとしたら、いかがであろう。多分、結果的に君が「音楽」好きであっても「スポーツ」好きであっても、そこには共通に、ある種の「退屈なくり返し」が避けられず、その「退屈」を抜きにしては、きっと「音楽」も「スポーツ」も成り立ちえないことに、君は思い至るのではあるまいか。それならば、君が「音楽」好きであるが故に「スポーツ」に「退屈」を感じ、反対に、君が「スポーツ」好きであるが故に「音楽」に「退屈」を感じるとしても、その違いについて、君は寛容になりうるであろうし、その違いを、違いとして尊重することも可能であるに違いない。

 

あらゆる芸術、というのを少し広げて、あらゆる創造の仕事というのは、退屈なくり返しというものを避けることができない。で、他人がそれを退屈だと思いながら〔、〕そこに座っているのは、一種の催眠状態〔中略〕に自然になっていくのかもしれないですね。〔改行〕作ってるほうはね、これは楽しくて〔、〕しようがない。退屈どころか、それが楽しいんだ。こちらからは〔、〕どんなに機械的な仕事に見えても、実際にやっている人間は、その機械的な仕事と、最高に頭を使っている状態が統一されているわけですからね。だから〔、〕もし退屈ということがありうるとすれば、それは見ているほうです。けれども、その見ている人間も、あるいは聴いたり〔、〕よんだりしている側の人間も、その仕事を〔、〕もし面白いと思うとすれば、それはその中に〔、〕その人間が入ってしまうからでしょう。ところが、それが、そこに入らない人間から見ると、あいつ、あんな退屈なものを聴いて〔、〕何してるんだろう〔、〕ということになる。

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