ホームメッセージこれが私の故里(ふるさと)だ...... ――「教養」の来た道(9) 天野雅郎

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これが私の故里(ふるさと)だ...... ――「教養」の来た道(9) 天野雅郎

謹賀新年。唐突ではあるが、二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)は僕の郷里の先輩である。とは言っても、彼(本名:長谷川辰之助)が僕の郷里(島根県松江市)で暮らしたのは、その生涯の限られた時期であり、厳密に言えば、明治の8年(1875年)から11年(1878年)までの、足掛け4年に過ぎない。が、それでも僕は、この事実に個人的に感謝し、この僥倖(ぎょうこう)を、はなはだ誇りに思ってもいる。なにしろ、この――実質3年にも満たない時期は、彼の数えの12歳から15歳に当たっており、今風に言えば、私たちが小学校から中学校へと歩を進め、いわゆる「思春期」の真直中(まっただなか)に佇(たたず)む時期であり、それは彼が、君や僕と同様、子供から大人への第一歩を踏み出す時期を、僕の郷里において経験した、と言うことに他ならないからである。

なお、彼は僕の郷里において、松江変則中学校という名の中学校に通っているが、これは明治5年(1872年)になって、俄(にわか)に私たちの国に近代的な、何とフランス風(!)の学校制度が持ち込まれた際、これに準拠する中学校、すなわち、下等中学校と上等中学校とは別に、その名の通りの変則的な形で、正規の修業年限――下等中学校は14歳から16歳までの3年間、上等中学校は17歳から19歳までの3年間、合わせて6年間の修業年限を踏まえず、教科内容も違えて、例えば「洋語」や「医術」を集中的に教えていた中学校のことである。もっとも、この制度(「学制」)は明治12年(1879年)になって、新たに「教育令」が公布されることで廃止されてしまうから、変則中学校という名の中学校が存在していたのも、たかだか7年間であったことになるが。

これ以降も、このようにして学校制度が切り替わる度、その変化に振り回され、私たちは多大の影響を蒙り、今に至っているけれども、その一方で、このような事態に絶縁状を叩き付ける勇気が私たちの側にある訳でもなく、そうである以上は、私たちと学校制度との付き合いは「死活問題」の様相を帯びざるをえなくなってくる。ただし、それが実際に「死活問題」であるのか、どうか……むしろ、それが本当は「死ぬか生きるかの問題」ではなく「Aの状態で生きるかBの状態で生きるかの問題」であり、それは単に、私たちが「生きるか生きるか」という「競争」に目を眩(くら)まされ、そこで右往左往をしている状態に過ぎない――と、例えば夏目漱石(『現代日本の開化』)のように喝破(かっぱ)することができれば、それは実に、爽快な気分であろう。

その点、二葉亭四迷が僕の郷里において、一方では「相長舎」という名の塾に通い、漢学者の内村友輔(うちむら・ゆうすけ)から教えを受けていたことは、想い起こされて然るべきであるし、この塾の塾生には、例えば後年の東京帝国大学(法科大学)の学長であり、現在の法政大学(当時の呼称は、和仏法律学校)の初代総理も務めることになる、法学者の梅謙次郎(うめ・けんじろう)や、あるいは、やがて第25代と第28代の内閣総理大臣を歴任する、政治家の若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)がいたことも、注目されて然るべきである。結果的に、梅謙次郎は一家を挙げて、明治7年(1874年)に上京しているから、二葉亭四迷とは没交渉であらざるをえなかったが、若槻礼次郎の方は二葉亭四迷の2歳年少であり、ほぼ同時期の塾生であったことになる。

また、その若槻礼次郎と小学校――実は、僕自身の出身校でもある雑賀(さいか)小学校で席を並べ、この「相長舎」にも共に通っていたのが、後年、日本体育協会(当時の呼称は、大日本体育協会)の会長や、国際オリンピック委員会(IOC)の委員を務め、その功績から、やがて「近代スポーツの父」と謳われることになる、弁護士の岸清一(きし・せいいち)である。ちなみに、この小学校の名は、たまたま君が和歌山の出身であれば、直ちにピンと来るに違いないが、もともと江戸時代に和歌山(当時の紀州)から、その名の通りの「雑賀衆」が移り住んだことに端を発しており、その伝統を踏まえ、この小学校の正門前には「雑賀魂」と彫られた……小学生の頃の僕が調子に乗って、その背中に跨り、遊んでいた、ライオンの像が今も置かれ続けているはずである。

ところで、和歌山の雑賀小学校(当時の呼称は、雑賀第一尋常小学校)が開校したのは明治26年(1893年)であるけれども、松江の雑賀小学校の方は、それより20年早く、明治6年(1873年)に開校しており、僕の家の裏手にある――と、これまた実にローカルな物言いで、恐縮であるが、洞光寺(とうこうじ)という曹洞宗の寺に、松江で最初の小学校(当時の呼称は、第七区小学校)として誕生しており、ちょうど僕が小学校の2年生の時、開校90周年の記念式典が開かれたのを憶えている。もっとも、この寺自体は、例えば小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『神々の国の首都』を始めとして、その作品に何度か登場することで知られているし、何を隠そう、僕が腕白(わんぱく)であった頃、先代の御住職には度々、叱られ、現在の御住職には……?(秘密!)

さて、このようにして僕の、かなり極(き)まりの悪い過去を振り返ることで、ようやく僕も、この小学校が産声(うぶごえ)を上げてから、まるまる今年(2013年)で140年の時が流れ過ぎていることに気が付いたのであるが、それと並んで、例えば先刻、名前を挙げた僕の郷里の先輩の、梅謙次郎が1860年(万延元年)に生まれ、二葉亭四迷は1864年(元治元年)に生まれ、それから一年刻みで、若槻礼次郎が1866年(慶応2年)に、岸清一が1867年(慶応3年)に、それぞれ生まれていることを想い起こすならば、その生年の近さと共に、彼らが今から150年前後を隔てて、ちょうど江戸時代が終わり、明治時代が始まる、いわゆる明治維新の直前に生まれ、その「維新」の過程(プロセス)と、ほぼ軌を一にするかのように成長していったことが、明らかになってくる。

もちろん、このような彼らの生涯は、端的に言えば、私たちの国が「大日本帝国」を名乗り、その名の通りの「帝国主義」への道を、ひたすら突き進んでいった、その意味においては不幸な、不遜な歴史でもあり、その道のりを踏まえれば、彼らの生涯を手放しで評価したり、賛美したりする気は、さらさら僕には起きないが、少なくとも彼らが僕には欠けており、おそらく君にも欠けている、文字通りの「青雲の志」の持ち主であった点は疑いがなく、そのような彼らの志(=心指し)の中から、やがて「教養」の二文字は姿を見せ、それが次世代の若者に対しても、絶大な影響力を発揮することになった点は見逃されてはならない。そのことを、今回は僕の年越しの帰省から生まれた、いささか羽目を外した懐郷談を通じて、僕は君に、伝えたかった次第である。

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