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「季節違い」の話 ――「教養」の来た道(90) 天野雅郎

前回、僕は君に「季節外れ」という語を使い、この語の周囲に存在している、顕在的にせよ潜在的にせよ、いろいろ厄介(やっかい)な問題について、あれこれ話題を提供しておいたけれども、そもそも、この「季節外れ」という語自体が厄介な語ではなかろうか、と僕は感じている。――と言われても、きっと君は面喰(めんくら)い、困ってしまうに違いないが、それを無視して、あえて僕は話を続けよう。なお、この「厄介」という語も実は、厄介な語であり、例えば『日本国語大辞典』(2006年、小学館)にも記されている通り、この語が元来、漢語の「厄会」(ヤッカイ→「わざわいの〔、〕めぐりあわせ」)に由来するのか、それとも和語の「家居」(やかゐ→家に居て、誰か「他の面倒や世話を受けること」)の変化した語であるのか、よく分からないのが実情であったから。

ところで、いったい「季節外れ」という語の、何が厄介なのであろうか......と言い出すと、さしあたり次の点が浮かび上がってくる。すなわち、この「季節外れ」という語の語感には、例えば「仲間外れ」や「期待外れ」のように、ある一定の、その都度の仲間や期待が予(あらかじ)め、何らかの形で前提とされており、そこから誰かが、あるいは何かが、文字どおりに「外れ」(←「外れる」)となることが条件のはずである。そして、その上で、その際の仲間や期待から外に出て、ある種の除外者や部外者や、場合によっては落伍者や逸脱者となることが、そもそも「仲間外れ」や「期待外れ」という語の使い方なのではなかろうか。それならば、このような「○○外れ」という語の使い方が、いわゆる「季節外れ」にも当て嵌まるのか、どうか、という点が問題にならざるをえない。

このようして振り返ると、少なくとも「季節外れ」の場合には、ある特定の季節(例えば、春)が、それ以外の季節(すなわち、夏と秋と冬)から「外れ」て、例えば「仲間外れ」のような状態で、仲間から「外れ」た関係になる訳ではないから、どうやら「季節外れ」と「仲間外れ」の間には、それこそ「仲間外れ」の関係が生じざるをえないようである。一方、これに対して「期待外れ」の場合には、例えば君や僕が誰かに対し、あるいは何かに対し、ある種の期待を持っていて、それにも拘らず、その期待が「外れ」となった状態を指し示すのであるから、一見、このような「期待外れ」と「季節外れ」の間には、良好な関係が成り立ちそうな気も、してこないではない。――でも、そうなると「季節外れ」とは、単に君や僕の身勝手な期待に過ぎなかったことにも、なりかねないが。

と言った次第で、けっこう「季節外れ」という語は気になり出すと、気になってしまう語なのである。事実、この「季節外れ」という語を私たち(要するに、日本人)は、いったい何時の頃から使い始めているのか知らん......という点も気になってくる。そこで、ふたたび『日本国語大辞典』で「季節外れ」を調べてみると、そこには内田百閒(うちだ・ひゃっけん)の『百鬼園随筆』(1933年)と、加藤周一(かとう・しゅういち)の『日本の庭』(1947年)が用例に挙げられていて、前者は具体的な「季節」の意味で、後者は比喩的な「季節」の意味で、いささか違う使い方をされているけれども、私たちの国の年号に直すと、前者の刊行されたのは昭和8年で、後者の刊行されたのは昭和22年であったから、戦前と戦後の差はあっても、どちらも20世紀前半の用例であったことになる。

と言うことは、この「季節外れ」という語を私たちは、ひょっとすると20世紀以降、使い始めたのであって、裏を返すと、それ以前(すなわち、19世紀以前)には、まったく使っておらず、より厳密に言うと、この語の出所は私たちの国の、ほかならぬ「昭和」という時代に、淵源を求めることが出来るのではあるまいか。――と、僕は益々、気になったので、今度は『日本国語大辞典』で「季節外れ」と、よく似た言い回しを引き直してみると、例えば「季節遅れ」の用例には川端康成(かわばた・やすなり)の『抒情歌』(1932年)が挙げられていて、ほぼ同じ時期の用例であることが分かるし、例えば「季節違い」の用例には......と言って、この語を『日本国語大辞典』で調べると、アレアレ、この語は『日本国語大辞典』には採録されておらず、僕は目下、立ち往生をしている次第。

と言って――と、僕は繰り返すけれども、この程度で立ち往生をしてしまい、そのまま御陀仏(おだぶつ)を遂げるようでは、まだまだ辞典(ディクショナリー)との付き合いは、中途半端の域(いき)を脱け出してはいないのであって、ここから更に続けて、次の一歩を踏み出すことが出来るのか、どうか......それが、突き詰めて言えば、辞典との付き合いの醍醐味(だいごみ→牛乳の発酵の最高の段階=美味!)なのである。と、このようにして大袈裟に、勿体(もったい)を付けるよりも、僕は君に「季節違い」という語が、もともと「季違」(きちがい←きちがひ)という形で、江戸時代までは普通に、用いられていた語であったことを伝える方が、はるかに重要であるし、君も例えば、これまで「季違花」(きちがいばな)といった語を、耳にしたこともあったのではなかろうか?

もっとも、例えば君が、この「季違花」という語を辞典で引いても、そこには「時節でない時に咲く花。くるいばな」(『日本国語大辞典』)という語釈が掲げられているのに出会うことはあっても、それは決まって、おそらく「気違花」という漢字表記に置き換えられているはずであり、その意味において、君も少し、顔を赤らめ(青ざめ?)ざるをえないのが、正直な所であろう。なにしろ、このようにして「気違花」以外にも、並んでいるのは「気違雨」(きちがいあめ)や「気違草」(きちがいぐさ)や、あるいは「気違日和」(きちがいびより)や「気違茄子」(きちがいなすび)といった、一連の語であり、これらの語は目下、奇妙にも、総じて「精神状態が尋常でなくなること。気が狂うこと」を意味し、はなはだ人間寄りに、人間の都合で、理解されているのであったから。

が、よく考えてみれば、このようにして「常識を〔、〕ひどく〔、〕はみ出たような言動をとること」や「また、その人」を指し示す語として、私たちが「気違」や、場合によっては「気狂」という語を使うことは、まあ、自分たちの側では自由であり、勝手であるにしても、その状態を植物や、ひいては自然現象に宛がい、これを「気違」の語で一括りにするのは、いかがなものであろう。逆に言うと、仮に私たちの「気違」状態を云々(うんぬん)するのであれば、その際は自分たちの、そもそも「季違」状態から「気違」状態を顧(かえり=省)みることも必要であろうし、それよりも何よりも、私たちの「気違」状態が決して、人間の「精神状態」や、人間並みの「気」には縮小されない、より広大な「気」の世界に通じるものであることも、君や僕は忘れてはならないに違いない。

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