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月(つき)のミステリー ――「教養」の来た道(95) 天野雅郎

先週はアレコレと、いわゆる月に関する話題(例えば、十三夜や皆既月食)が豊富であったので、僕も今回は君に、月の話を聴いて貰(もら)いたい、と思っている。が、この月という漢字が元来、月の形を象(かたど=形取)った、その名の通りの象形文字(hieroglyph=神聖文字)であることは、この文字を眺めていれば、うすうす気の付く点であろうし、君も心持ち、この漢字を柔らかく、横たえるようにして書けば、そこから夕(ゆうべ→この漢字も実は、月の形を象ったものなのです!)の空に姿を見せた、三日月の形を思い浮かべることが出来るに違いない。ただし、この月という漢字を君や僕は、どうして日本語で「つき」と読むのであろうか......と言い出すと、それほど話は容易ではなく、いろいろ七面倒(しちめんどう)臭い説明を、僕は君に、しなくてはならない。

ところで、このような時にも差し当たり、君は手許の国語辞典を引くべきであるけれども、困ったことに、日本の国語辞典には総じて、このような語源についての説明が、まったく欠落しているか、不足しているのが実情あり、例えば君が英語で月(moon)という語の語源を知りたくて、ごく身近にある英語辞典を調べれば、それが中学生用の辞典や高校生用の辞典ではない限り、そこにラテン語の語源(mensis)が載っていて、この語が元来、暦の上での月(month)と同語源の語であることが分かるはずである。もっとも、それを遡って、さらに君がギリシア語の月(mene)や、それどころか梵語(サンスクリット)――すなわち、完成された、洗練された、優美な雅語(Sanskrit)の月(masa)にまで辿り着くには、もう一段階上の、君は「英語大辞典」あたりに目を通す必要が生じてくる。

と言った次第で、僕は君に「語源辞典」の一つ(二つ? 三つ? 四つ?)でも、ぜひとも机の上に並べておいて欲しい、と願っているが、今回は僕が君に代わって、僕の手許の語源辞典(『日本語源大辞典』2005年、小学館)で「月」という語の語源を紹介しておくと、そこには以下の語釈に続いて、この語が『万葉集』の時代から使われ続けている語であったことが書かれた後、合わせて8(!)の語源説が列記されている。と言うことは、この語の語源は現在に至るまで、ほとんど定説と呼べるものが存在しておらず、君や僕は結果的に、これまで「月」という語を意味も知らず、訳も分からず、ただ子供の頃から「つき」という読み方だけを教えられて、これを只管(訓読→ひたすら、音読→シカン→道元「只管打座」)馬鹿の一つ覚えのように(......^^;)口にして、今に至ることになる。

 

地球に〔、〕いちばん近い天体で、地球の〔、〕ただ一つの衛星。二七・三二日で自転しながら、約二九・五三日で地球を一周し、その間、新月・上弦・満月・下弦の順に満ち欠けする。その運行に基づいて暦が作られ、神話、伝説、詩歌などの素材ともされる。日本では「花鳥風月」「雪月花」などと、自然美の代表とされ、特に秋の月をさすことが多い。太陽に対して太陰ともいう。

 

ウ~ン、なかなか上手(音読→ジョウズ、訓読→うまい)語釈だな、と僕は思うけれども、さて君は、どのように感じるであろう。ちなみに、この語釈自体は、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の「月」の語釈の、いちばん最初に置かれているものを、いくぶん縮めたものであり、そこから抜け落ちている部分を補っておくと、まず「半径一七三八キロメートル、玄武岩質で組成され、大気はない」という説明と、それから「太陽とともに人間に親しい天体で」ある、という説明(解釈?)である。さらに、この文章の末尾には「つく。つくよ。月輪。また、ある天体の衛星のこともいう」という一文が添えられていて、この語が「つき」以外にも、これまで多くの、別の呼び名を持っていたことや、ごく最近の、新しい使い方(「人工の月」→人工衛星)にも目配りが及んでいる。

さて、その上で、それでは「月」は日本語で、なぜ「つき」と称されているのであろうか、という点に話を戻すと、どうやら大きく、それは「つぐ」(次ぐ・継ぐ)や、その連用形の名詞化である「つぎ」(次・継)から由来する、という考え方と、その一方で、この語(「つぐ」)とは、よく似ているけれども、これとは違った語である「つく」(尽く→「つきる」)という語が語源である、という考え方に分かれるようである。この点を、さきほどの『日本語源大辞典』は「①光彩が日に次ぐところからツギ(次)の義」と「②毎月一度〔、〕輝きがツキル(尽)ところ」から「つき」と呼ぶ、という形で紹介している。この他にも、いろいろ面白い、奇説や珍説が掲げられていて、僕自身は興味深いけれども、おそらく君には、あまりにも煩雑であろうから、この場では割愛をしておこう。

要するに、君や僕が「月」という漢字(=中国文字)を日本語で「つき」と読むのは、この語が「つぐ」や「つぎ」や、ひいては「つつく(→つづく)」(続く)という、ある種の継続性や、接続性や連続性に由来している、と考えるのか、それとも、そのような継続性が途絶えて、その名の通りに「つき」て、逆に消失性や消耗性や、消尽性が姿を見せることに理由がある、と考えるのか、どちらかであろう。もちろん、どちらを選んでも、そこには一方的な継続性も存在していないし、一方的な消尽性も存在してはいない。なにしろ、いつも「つき」は決まって、まさに毎月一度、このような「つきる」ことと「つづく」ことを繰り返しつつ、そこに宇宙(cosmos)の――大宇宙(macrocosm=世界)も小宇宙(microcosm=人間)も含めて、その神秘を、君や僕に教えてくれるのであるから。

その意味において、僕は「月が人間に、生と死を教えてくれた最初の天体である」と評した、ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade)の言葉の信奉者である。と書いて、いささか気になったので、僕はアレコレと、この宗教学者の本を捲(めく)っているのであるが、この言葉自体が記されているのは、どうやら『永遠回帰の神話』(堀一郎訳、1963年、未来社)でも『大地・農耕・女性』(同上、1968年、未来社)でもないし、あるいは『聖と俗』(風間敏夫訳、1969年、法政大学出版局)でもないし、やっぱり彼の代表作として位置づけられる、あの『宗教学概論』の中の『豊饒と再生』(久米博訳、1978年、せりか書房)なのか知らん......と思って、拾い読みをしているけれども、恐ろしいことに、これは僕の誤解(妄想?)であり、このような言葉を、彼は口にしていないのかも知れない。

と、このような調子で僕は、今日も陰暦(lunar calendar=月暦)の、いわゆる「立待(たちまち)の月」と言おうか「居待(いまち)の月」と言おうか、夜明け方の月を繁々(しげしげ)と眺めている。でも、そもそも月が日本語で、このようにして「つき」と呼ばれてきた背景には、やはり月が「つく」(憑く)ものであり、その意味において、月は君や僕の「つきもの」(憑物)であることも、忘れられてはならない。そして、そのような事態をミルチャ・エリアーデの『豊饒と再生』は、次のような表現で一括していたのである。――「月は人間に、固有の人間的条件を啓示してくれ、そしてある意味で、人間は月の生の中に自分を見、自分をみつけだす、ということができよう。それだからこそ、月のシンボリズムや神話は〔人間を〕感動させると同時に、慰めてもくれるのである」。

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