ホームメッセージ「教養の森」を旅する人に ―― cicerone 2015 天野雅郎

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「教養の森」を旅する人に ―― cicerone 2015 天野雅郎

【教養の森 cicerone 2015 より転載】

君が今、その手でページを捲(めく)り始めたばかりの、この小冊子(ブックレット)には、おそらく君には見覚えがないであろう、cicerone(チチェローネ)という名が付けられている。すでに表紙の裏面でも、この語の簡単な説明は済ませておいたから、この語が元来、イタリア語であることを、君は了解してくれているに違いない。が、この語は現在、君が手許の英和辞典を引けば、そこに名所や旧跡の「案内人」(すなわち、ガイド)という訳語を伴って、ちゃんと英語として記載をされているはずである。事情は、例えばドイツ語でもフランス語でも、変わらない。――要するに、この語は広くヨーロッパにおいて、それどころか、君が世界中の多くの国に旅をして、それぞれの場所を訪れた際、そこで君を導き、そこに営まれている人間の生活や、風土や歴史や文化について、君に興味の尽きない話を聞かせてくれる、すぐれた「ガイド」のことを指し示しているのである。

 

このような「ガイド」(guide)は、場合によっては「ガイダンス」(guidance)や、あるいは「ガイドブック」(guidebook)という形を取って、君にも馴染みのある語なのではなかろうか。この小冊子は、その意味において、君が和歌山大学に入学し、これから和歌山大学で、一人の大学生(a university student→a person studying at university)として過ごし、その名の通りに骨を折り、努力を重ね、いろいろなことを学び、経験し、時には傷付き......挫折をすることがあったとしても、そのことで君が途方に暮れ、道に迷うことがないように、さしあたり君の、勉学面での「案内人」の役目を果すべく、君に送り届けられている。したがって、君が和歌山大学の、どの学部、どの学科、どの課程に所属をしていても、そのことには関わりなく、君に一人の大学生として、ぜひとも知っておいて欲しいこと、それどころか、君が知っておかなくてはならないことが、書かれている。

 

なぜなら、この小冊子の「案内人」とは、その起源を遡ると、かつて古代のローマにおいて、雄弁家や政治家として、あるいは哲学者や法学者として、ひいては翻訳家や著述家として、その名を馳せていた、キケロ(Marcus Tullius Cicero)に辿り着くことになるからである。実際、もし君がイタリアに旅をして、今でも「永遠の都」と称されている、ローマを訪れたことがあるのなら、そこには「チチェローネ通り」(Via Cicerone)と呼ばれる通りがあって、おまけに、そこには同名のホテルまであることを、君は知っているかも知れない。そして、その通りがヨーロッパで、これまで歴史上に姿を現した、最高の「教養人」の一人に数え上げられている、ほかならぬ「チチェローネ」こと、キケロに由来するものであることも――ことによると君は、これまた現在のヨーロッパの、一人の雄弁な「チチェローネ」の口を通じ、あれこれ話に聞いたことが、なかったとは言い切れまい。

 

もっとも、この小冊子が主として、キケロの名を選び、その名を借りて、君に伝えておきたいのは、このような「教養人」としてのキケロの姿であると共に、それと並んで、実はキケロ自身の造語とされている、クルトゥーラ・アニミ(cultura animi)というラテン語に、因んだ話である。......とは言っても、別段、それほど難しい話ではないから、心配しなくても大丈夫である。なにしろ、この語の前半部分は、そのまま別の形に置き換えれば、英語のカルチャー(culture)に姿を変えるし、後半部分も同様に、これまた英語のアニマ(anima)や、そこから次々と、アニマル(animal)やアニメーション(animation)やアニミズム(animism)に、それぞれ通じ合っていくから、きっと君も少し、頭を捻(ひね)れば、この語が日本語で「心の耕し」とか「魂の耕し」とか、いささか堅苦しく言えば、それを「精神の耕作」と訳すことの叶う語であることは、すぐに分かるに違いない。

 

このような言葉の連なりは、そもそも人間にとって、カルチャーの代表が「農耕」であり、英語で言えば、それは「アグリカルチャー」(agriculture)に他ならないことを、君に告げている。また、その際に耕されるべきものが、さしあたり田畑(ager)ではなく、むしろ君の「心」や「魂」や、何よりも「生命力」(anima)である時に、これをローマの「国父」(キケロ)は、クルトゥーラ・アニミと称し、それを今日、私たちは日本語で、まさしく「教養」と呼んでいる訳である。――裏を返せば、このようにして日本語で「教養」という語が使われる折に、その意味が逆に、茫漠としている理由も判然としてくる。例えば、仮に君が「カルチャー・センター」という名の場所に行き、そこに多様な、学習の機会が提供されているのを目にしたら、そのセンターのことを、君は「文化センター」として理解するのであろうか、それとも「教養センター」として理解するのであろうか。

 

このように訊かれても、君は判断に迷ってしまうに違いない。なぜなら、それは「文化センター」であると同時に「教養センター」でもあり、要するに、この両者は同じ、一つの「カルチャー・センター」なのであるから。......ただし、それが突き詰めれば、そこに「心の耕し」や「魂の耕し」や、あるいは「精神の耕作」と評される行為と、その作業を伴っているのか、どうかは別問題であろう。事実、このような「カルチャー・センター」は疎(おろ)か、日本の大学教育の現場では、ひさしく「一般教育」と「教養教育」が混同され、すりかえられ、おきかえられ、これが蔑称(一般教育→般教→パンキョウ→パンキョー)となり、学生の口から学生の口へと、それどころか、次第に教員や職員の口へと引き継がれて、当の「一般教育」自体は、とっくの昔に大学から姿を消しているにも拘らず、この蔑称自体は亡霊のように、今でも大学の構内を、ウロウロしている始末である。

 

そのような大学の一つが、決して和歌山大学ではないことを、君は信じて構わない。なぜなら、この大学では数年来、日本中の他の大学に先駆けて、さまざまな「教養教育」の取り組みが行なわれているからであり、そのような取り組みの中心(center)として、その名の通りの「教養の森」センターも設置されているし、この小冊子も君の手に、君の所属している学部や、学科や課程には関わりなく、それどころか、君の学年にも関わりなく、送り届けられているからである。もちろん、この小冊子(booklet)は文字どおりの、小さな(let→指小辞)冊子に過ぎず、ここに書き込まれている情報には、おのずから制約があることも、疑いがない。――でも、それは君を、この小冊子が「教養の森」全体へと導くための、言ってみれば、先導役を果しているからに他ならないのであって、この小冊子を通じて、やがて君は「教養の森」の、例えばウェブサイトを開くことになるであろう。

 

すると、そこには和歌山大学で、どのような「教養教育」が展開されているのか、具体的に言えば、どのような授業科目が存在しているのか、その内容を、つぶさに知ることの出来る窓口(「シラバス」)もあるし、その授業科目の担当教員に、君が直接、質問したり、相談したりする窓口(「ひろば」)も新しく作られている。ただし、そこから君が本当に、この「教養の森」に興味を持ち、その「森」(=木+木+木)に生えている木の、一本一本に手を触れて、その温もりを感じたいのであれば、君は例えば、あの夏目漱石の『三四郎』の主人公と同様、図書館に足を運び、その本棚に眠っている、ヤーコプ・ブルクハルト(Jacob Burckhardt)の『チチェローネ』(1855年、邦訳→中央公論美術出版)や、林達夫の『芸術へのチチェローネ』(1971年、平凡社)を見つけ出し、その眠りを覚まし、君の手で......その一冊一冊の本を、繙(ひもと=紐解)く必要があるのである。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

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