ホームメッセージ「教養の森」を旅する人に ―― cicerone 2019 天野雅郎

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「教養の森」を旅する人に ―― cicerone 2019 天野雅郎

日本で言うと、ちょうど竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)の生きていた頃に、同じようにして画家となり、また、デザイナーとしてもイラストレーターとしても大活躍をし、一世を風靡したアメリカ人がいる。と書き出したら、それがマックスフィールド・パリッシュ(Maxfield Parrish)のことであるのを、ひょっとすると君は気付いてくれているのか知らん。それならば、君は目下、大学生になったばかりの初々(ういうい)しい顔立ちとは裏腹に、これまで幾度も受験勉強のプレッシャーに押し潰されそうになりながら、へこたれずに美術室の片隅で絵筆を握っていたか、それとも、いつか図書室のアート・ライブラリーで、この「パリッシュ・ブルー」の画家の作品を目にし、その青さに、ふと吸い込まれそうな体験をしたことがあるのではなかろうか。そのような君のためにこそ、きっと和歌山大学は君を待ち、その入学を祝しているに違いない。――おめでとうございます。

 

でも、もともと絵(え)を画(えが)くことは人間にとって、とても古い、その名の通りの「コミュニケーション」(communication=情報伝達)の方法であって、仮に君が絵を画くことが好きだとか、嫌いだとか、それだけの理由で絵を画くことに関心を持ったり、逆に......持たなかったりしてしまっているのであれば、それは君にとって、はなはだ勿体(もったい)ないことなのではあるまいか。なぜなら、それはイギリスの動物学者で、なおかつ、遺伝学者でもあれば言語学者でもあった、あのランスロット・トマス・ホグベン(Lancelot Thomas Hogben)が『洞窟絵画から連載漫画へ』(1949年)において、そのまま論じていたことでもあれば、この著作には「人間コミュニケーションの万華鏡」(From Cave Painting To Comic Strip: A Kaleidoscope Of Human Communication)と称する、いたって興味深い副題まで添えられていたからである。漫画は、お嫌いでしょうか?

 

と、このような愚問を発したのは、どうやら近年、漫画好きの大学生が減っているらしく、その背景には何と、手動式(マニュアル)の漫画から自動式(オートマチック)のアニメへの、ファン層の雪崩(なだれ)現象までもが取沙汰をされるほどであるが――例えば、もう今から1300年ばかりも昔の、この国の奈良時代には、当然ながら、そして幸運ながら、写真も映画も、テレビもアニメも、もちろん、スマホのスの字も発明されていなかった訳である。な~んて話を、若い君に持ち出すのも失敬千万、恐縮千万ではあるけれども、当時は日本と朝鮮半島との間に、ひいては中国大陸との間に、それこそ一触即発の戦争の危機が介在しており、そのために日本各地から若い男たちが、いわゆる防人(さきもり=崎守)として招集され、両親や兄弟姉妹や、あるいは友達や、何よりも恋人から引き離され、次々と辺境防衛の兵士となり、故郷から九州へと駆り立てられていた次第。

 

とは言っても、これと似た危機的(critical=批判的)な状況は、今も昔と変わらず、君の目の前に浮かび上がっている。そのことを、君は連日、新聞やテレビのニュースを通じて知っているであろうから、これ以上の多言を弄するのは控えるが......当時は困ったことに、愛し合う者同士が無理矢理、今生(こんじょう)の別れを交さなくてはならない折には、相手の顔を一生懸命、絵に画くこと以外、有効な情報伝達が見つからなかったのである。なにしろ、切ないけれども人間は、いったん顔と顔を合わせなくなってしまうと、お互いの顔すらもが、少しずつ、少しずつ分からなくなり、忘れてしまうのが普通なのであるから。ちなみに、そのような恋人同士(=夫婦)が別れに際して、詠んだ歌が『万葉集』(巻第二十)に遺されているので、ぜひ君も、ご一読を。「我(わ)が妻も絵に描(か)き取らむ暇(いづま→いとま)もが旅行く我(あれ)は見つつ偲(しの)はむ」(4327)

 

さて、このようにして振り返ると、意外や意外、絵を画くことは君にとって、かなり大切な、それどころか、はなはだ大切な営みであり、そのために必要な、知識と技能でもあることが身に染みて分かってくるのではなかろうか。――おまけに、絵画とは単に、そのまま絵を画くことに限定されるのではなく、この漢字の字面を眺めていれば、うすうす君も勘付いてくれているであろうが、絵画の「絵」(カイ→繪)は「糸」と「会」(→會)を組み合わせたものであり、これは刺繍の意味であるから、実は「絵」は、君の衣服や装飾や、要は服飾(ファッション)とも重なり合っているし、その範囲は屋内装飾(インテリア)や屋外装飾(エクステリア)にも及んでいる。それと共に、絵画の「画」(ガ→畫)も密かに、そこに「筆」の形が潜んでいるのを見抜くなら、これは学校の勉強や、それを支える読み書き力(リテラシー)として、君の生業そのものにも直結しているのである。

 

絵画とは、その意味において、いわゆる美術や芸術や技術の、狭い術(アート)の枠内に、押し込め、閉じ込め、封じ込めるべきものではなく、むしろ人間の生活と人生の、すべての領域をカヴァーし、時には逆に......そのカヴァー自体をも取り払い、除き去る、ある種の発見(discover=露呈)の行為であれば、そのための道具なのでもある。そのことを、おそらく歴史上、人類が最初に理解し、そこに多くの夢や希望や、挫折をも積み重ねるに至るのは、ようやく19世紀から20世紀へと、この世界が近代化を遂げ、その歩を進める渦中であり、今回、君に紹介しているマックスフィールド・パリッシュも、あるいは竹久夢二も、そのような時代の申し子であり、寵児であった点は共通である。事実、そのような時代に彼らは、ある時は画家として、ある時は詩人として、また、ある時はデザイナーとしてもイラストレーターとしても、縦横無尽の多才振りを発揮したのであった。

 

この小冊子の裏表紙には、そのような彼らの作品から、マックスフィールド・パリッシュが1897年、日本の年号に直せば、明治三十年に雑誌(『スクリブナーズ』)の「フィクション特集号」(8月号)のために制作した、その名も「森の少女」と題されたポスターが掲げてある。もちろん、その理由は他でもない。一つ目は、これが彼の「パリッシュ・ブルー」の出発点を飾る作品であるのを、君に知って欲しいこと、二つ目は、その青さが「森の少女」の本を読む姿で表現されていること、三つ目は、そのような読書によって人間の、あらゆる人間らしさは生まれ、育まれるものであること――例えば、愛情も友情も、情緒も情熱も、それどころか、情景や情報すらもが情(=心+青)であり、そこには人間の、心の青さが指し示されている。そして、その青さを、清らかさであれ、静けさであれ、晴れやかさであれ、君は読書を通じて、みずからの精神に届けることが出来るのである。

 

言い換えれば、そのような心の青さを守り、これを操(みさお=深青)として、まさしく日本では竹久夢二が、アメリカではマックスフィールド・パリッシュが、それぞれ絵筆を執り、さまざまな作品を産み出していた頃、それに歩調を合わせるかのごとく姿を見せたのが、いわゆる教養であった。であるから、この教養という語には彼らの創作活動のように、多方面に及ぶ知識や技能が求められ、それを欠いていては、おそらく成り立ちようのないのが教養であることも確かであろう。その限りにおいて、教養は欲が深く......贅沢である。が、それと同時に教養を、むしろ支え、輝かせているのは、以下に挙げる竹久夢二の言葉のように、あくまで彼の「心臓」であり「命」であったことも、見逃されてはならない。この場では、あえて君のために読み易い、新漢字と新仮名遣いに改めておいたから、これも一緒に君の大学入学の、お祝いとして君に贈ろう。おめでとうございます。

 

世の人々の、こころに映る自分の幻影は、常に、美しく、好(よ)きものでありたい。

自分の絵は、人の世の旅路に、たとえば、胸に挿んだ心の花から花弁(はなびら)を一つ一つ路へ捨ててはゆく――その花弁だ。

おなじ路を辿って来る、うら若い青年や少女に拾われて、自分が、どんなに自然を愛しているか、どんなに人生を楽しんでいるかを知らせてやりたい。

そして、一度、自分の絵を見た誰でもをして、世のすべてを――恋人をさえも忘れて、花弁を、たずねゆかしめよ。

もし間違えて、紅い花弁のかわりに、自分の心臓(はあと)の碎片(かけら)を落しでもしようものなら......それでも構わない。

絵は、僕の命だもの。(『夢二画集・夏の巻』)

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