ホームメッセージ「教養の森」を旅する人に ―― cicerone 2018 天野雅郎

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「教養の森」を旅する人に ―― cicerone 2018 天野雅郎

春が来ると、人は春めいた服を着たくなったり、春らしい食器の一つをも買い、食事をしたくなったり、あるいは部屋の中のカーテンを春っぽい色や模様に替えたくなったりする。おそらく、それは人が春を初めとする季節(=春夏秋冬)と共に生きており、そのような四季の繰り返しの中で、みずからの生活(=衣食住)が産み出されているからであろう。その限りにおいて、突き詰めるならば、人は動物や植物や、それどころか、この地球とすら違う所はない。――事実、春が来ると空は晴(は)れ、光は射し、花の蕾や木の芽は張(は)り、膨らみ、それに誘(いざな)われるかのようにして、やおら人は家の外に出て、土を墾(は)ることにもなる訳である。そして、そのような自然の命(いのち=生の霊)の、すべての営みが、まさしく発(は)る時こそが、春(はる)に他ならない。

 

日本語は......美しい。でも、このようにして日本語で、次から次へと春を呼び、春を招き、春を迎えるべく、そこに万(よろず)の言(こと=事)の葉を連ねることが出来るのは、やはり人が、人であるからこそ、成し遂げることの叶う、人にのみ許された行為であり、その特権でもあれば、責任でもあったに違いない。したがって、あの紀貫之が『古今和歌集』の仮名序において述べていたように、花も木も草も、鳥も虫も魚も、ことごとく命あるもの(「生きとし生けるもの」)は歌を詠んでいる、とは言いえても、その歌に感じ入り、そこに神様の姿まで思い描くのは、やはり人だけではなかろうか。ちなみに、そのような和歌(音読→ワカ、訓読→やまとうた)の聖地であり、和歌の神様の鎮座する場所に存在しているのが、君が今、入学をすることになった、和歌山大学でもあった次第。

 

ところで、このようにして人が、その万の言の葉を介して産み出した、さまざまな創造物を一言で表現すると、そこに浮かび上がってくるのが「文化」という語である。この語は元来、漢語(すなわち、中国語)では「武化」の対語であり、要は人が、武器や武力を用いて、社会と、そこに暮らす人々の生活を支配し、管理するのではなく――逆に文字や文章や、それらを綴り合わせた文書を読み、書き、場合によっては、これらを話したり、聞いたりすることで、そのような言の葉と関わる人の心に、何よりも幸福と、やさしさを齎(もたら)すための条件を探し出す、そのような人間関係のことを指し示している。それゆえ、例えば芸術や宗教が「文化」であるのと同様、政治も経済も「文化」であるし、さらに君が大学で勉強をすることになる、あらゆる学問や科学も「文化」なのである。

 

そして、そのような「文化」を明治時代以降、文字どおりの「文明開化」(=文化)の渦の中で、やがて日本人は翻訳語として使い出し、その背後には君も知っている、あの英語の「カルチャー」(culture)が包み隠されている。とは言っても、そのこと自体に日本人の多くが、どこまで自覚的であったのかは疑わしく、この語が次に、ドイツ語の「ビルドゥング」(Bildung)とも絡まり合いながら、大正時代には「教養」という語を新しく、時代の寵児のように仕立て上げていく過程に際しても、そこに一方では「カルチャー」の原義である「耕作」という意味を、もう一方では「ビルドゥング」の指し示す「自己形成」や「人格陶冶」という意味を、それらの像(Bild)として形作る(bilden)ことが、はたして出来ていたのか......どうか、それが「文化」という語の躓きの始まりでもあった。

 

ちなみに、このようにして登場した「文化」や、この語の双生児のようにして生み落された「教養」こそが、実は君が大学で、よく耳にするであろう「パンキョー」という言い回しの起源であって、そこでは「教養」という語が今から百年前とは違い、まったく輝きを失った、侮蔑の対象にまで零落(おちぶ)れている。――と書き継ぐと、いかにも現在の大学において、このような「パンキョー」が無駄な勉強であり、身に付ける必要のない知識や技能の代名詞であるかのように、君は感じるのかも知れないが、それならば和歌山大学の図書館(新棟四階)には、なぜ「教養の森」センターと称される場所があり、そこから君に、このようにして毎春、イタリア語で「チチェローネ」(cicerone)と題された小冊子が、君に教養教育の道案内役(ガイド)として、送り届けられているのであろう。

 

事態は、むしろアベコベなのである。なぜなら、この「教養の森」センターが平成24年(2012年)の秋(10月1日)に創設されてから、その標語(スローガン)として掲げ続けている、あの「人間になるための教育」(the art of being a human)にしても、また、それに因(ちな)んで付けられた、このセンターの英語名(Center for Human Enrichment)にしても、そこには君が一人の人間(a human being)として、人間らしい生活や人生を送ることの大切さや、その悦びが刻み込まれているからである。もちろん、そこには多くの楽しさと共に、時には辛い......さまざまな悲しみも君を待ち受けているに違いない。が、そのような光も影も伴いつつ、君は君自身の、かけがえのない幸福を、君が生きている限り、最低限、手に入れなくてはならないし、手に入れる必要があるのではなかろうか。

 

要するに、そのような君の生活や人生において、君が君自身であり、君自身となるために、求められる知識や技能が「教養」や、その裏返しである「文化」の言い換えに他ならない。その意味において、つい先刻、和歌山大学の構成員(=学生+教員+職員)の一人になったばかりの、いまだ初々(ういうい)しい君に、初々しいからこそ、伝えておきたい言の葉がある。それは、きっと君も好きに違いない、そうであってくれたら、とても嬉しい、あの太宰治の小説(『正義と微笑』)と書簡(昭和21年4月30日付、河盛好蔵宛)の一節であり、これを今、君の和歌山大学入学を祝し、おそらく和歌山大学で一番、見晴らしの好い、爽快な「教養の森」センターの窓から、君に届けよう。――御入学、おめでとうございます。そして、君が一日も早く、大学生らしい大学生に、なれますように。

 

勉強というものは、いいものだ。〔中略〕日常の生活に直接、役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。〔中略〕カルチュアというのは、公式や単語を、たくさん暗記している事でなくて、心を広く持つということなんだ。つまり、愛するということを知ることだ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならず酷(むご)いエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に、一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を生活に無理に直接に役立てようと、焦(あせ)ってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!

 

文化と書いて、それに、文化(ハニカミ)というルビを振る事、大賛成。私は優という字を考えます。これは優(すぐ)れるという字で、優良可なんていうし、優勝なんていうけど、でも、もう一つの読み方があるでしょう? 優(やさ)しいとも読みます。そうして、この字をよく見ると、人偏(にんべん)に、憂(うれ)うると書いてあります。人を憂える、ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、また人間として一番、優(すぐ)れている事じゃないかしら、そうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。〔中略〕そんなところに「文化」の本質があると私は思います。「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて敗けるものです。それで、よいと思います。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

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