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熊野学事始(第六話)――「教養」の来た道(101) 天野雅郎

さて、今回も執拗(シツヨウ)に熊(くま)の話である。――と、最初から僕は、君に悪びれることなく、ことわっておくことにしよう。でも、そのような「ことわり」(判・断→事割・言割)を通じ、むしろ僕が君に耳を傾け、聴いて欲しいのは、君や僕が逆に、決して熊との間に「ことわり」きれない、ある種の理(ことわり)の無さを抱え込んでいる、という点であり、そのような理を過ぎた、無理な関係を、君や僕は熊との間に、これまでも抱え込んできたし、これからも抱え込んでいかざるをえないことを、確認できれば......と思っている。そのために、僕は前回に引き続き、谷川健一(たにがわ・けんいち)の「民俗学」の「私製の定義」を、今回は『民俗の思想』(1996年、岩波書店)から、引いておくことにしたい。すなわち、民俗学とは「神と人間と自然の交渉の学」である。

ただし、注意して欲しいのは、その際の「神」が「被造物と一線を画する超越的な神ではない」という点であり、同様に「また自然とは科学者の対象とする客観的な自然ではない。動物や植物は〔、〕いうに及ばず、石や水や土までも生き物としてあつかわれる自然にほかならない」という点である。この点を、動物に即して言うと、そもそも「民俗学では人間と動物を〔、〕おなじ次元で見ていく。善悪の考えを捨てて、人間の生態をリアルにクールに見ようとする見方をとる。民俗学の人間観は道徳的な人間観でもなければ、宗教的な人間観でもない。あるいは経済的な人間観でもない。動物と〔、」おなじ生物の一員として人間を扱うのである」と言うことになる。その意味において、民俗学は一面、生物学(biology=生命学)や生態学(ecology=環境学)とも深い繋がりを持っている。

民俗学の目から見て、人間と動物の間に違いがあり、隔たりがあるとすれば、それは人間が「死後の世界を夢み、想像できる動物」である、という一点のみであって、このようにして「死後の世界を考えることのできる動物」である、という一点を除けば、人間と動物の間に差異はない、と谷川健一は言っている。なるほど、と僕も頷き、首肯するけれども、それならば「死後の世界を夢み、想像できる動物」である能力や、その権利を放棄して、捨て去った人間は、いったい人間なのであろうか、それとも動物なのであろうか。あるいは、それは文字どおりに半人(half-human)半獣(half-beast)の、例えばギリシア神話に登場する、あのケンタウロス(Kentauros)やサテュロス(Satyros)や、セイレーン(Seiren)やミノータウロス(Minotauros)と一緒の、奇怪な存在なのであろうか。

ところで、そのような半人半獣の状態に、仮に熊が引き合いに出されると、どのような姿を取るのであろう。――と想像すると、それほど話は容易ではなく、人間の体に熊の頭や手や足を、くっ付けても、それは相当に不釣り合いであり、不格好であろうし、これを逆に置き換えて、熊の体に人間の頭や手や足を接合しても、おそらく滑稽、この上ない。と言うことは、どうやら熊は人間にとって、その接合や置き換えが、とても困難な動物なのではないのか知らん、と僕は独合点(ひとりがてん)をし、納得をしているけれども、さて君は、どうであろうか。要するに、僕が言いたいのは人間と、片や熊の間には、部分的な置き換えだけでは済まされず、片が付かず、全体的な置き換えが必要となる、まさしく民俗学(「神と人間と自然の交渉の学」)の領野が開けている、と言うことである。

と言った次第で、ここから僕は、ふたたび「熊公八公」や「熊女」や、あるいは、石川五右衛門(いしかわ・ごえもん)や熊坂長範(くまさか・ちょうはん)という名で知られている、伝説上の大盗賊のことを想い起こしている。が、やはり一番、このような熊の姿と結び付き、熊の姿と重なり合う、代表的なキャラクターを挙げるとなると、それは『古事記』(中巻)に登場し、あの倭建(やまと・たける)に成敗され、その末期(まつご)に及んで彼に対し、その名の通りの「倭建」の称号(title)を与えることになる、例の熊襲建(くまそ・たける)の兄弟であったのではなかろうか。なにしろ、この熊襲建のイメージが引き継がれることで、裏を返せば、倭建のイメージも引き継がれ、それは小柄で美貌の、源義経(みなもと・の・よしつね)の姿をも刻み出すことになるのであるから。

なお、このようなイメージの連鎖の上に、僕は当然、武蔵坊弁慶(むさしぼう・べんけい)や、場合によっては、そこから「猿」繋がりで、猿飛佐助(さるとび・さすけ)や豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)の若き日の姿など、あれこれ想い起こして、妄想に耽(ふけ)ることなど、朝飯前の「お茶の子、サイサイ~♪」であるけれども、このような話を続けていると、きっと君は僕のことを、すでに相当、不審な目で(......^^;)見ているに違いない。が、このような話は僕に言わせれば、これまた谷川健一の言っている「記憶の伝導体」に関わる話であり、それが実在の人物であっても、なくても――要するに、それが架空の、空想の人物であっても、そこでは「生者が思い出すことによってのみ過去が存在するという考え」を、僕は決して等閑(なおざり)にしてはならない、と思っている。

逆に言えば、そこに「物体が落下するように過去の伝承は伝わるものではない。むしろ噴水が物体を押しあげるようにして過去は現在へとつながる」のであり、したがって、これまで「あらゆる日常の困難さを乗り越えて、民間伝承や民俗行事を伝えてきたものは、そうした常民の〔、〕ささやかな決意にほかならなかった」。......と、このようにして谷川健一は、かつて折口信夫(おりくち・しのぶ)が『妣〔はは〕が国へ・常世〔とこよ〕へ』(大正9年・1920年)の中で、感じ取り、受け止めていたのと同じ、あの「間歇〔カンケツ〕遺伝」を偲(しの)ばせるような言い回しを使い、この「記憶の伝導体」の存在を告げている。ちょうど折口信夫の一文も、彼の若き日の「熊野」への旅の記憶と共に語られているから、君には結構、読み辛い文章であろうが、あえて僕は次に掲げておこう。

 

十年前、熊野に旅して、光り充〔み〕つ真昼の海に突き出た大王个崎〔だいわうがさき〕の尽端〔じんたん〕に立つた時、遥かな波路〔なみぢ〕の果〔はて〕に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此〔これ〕を〔、〕はかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以〔もつ〕てなれない。此は是〔これ〕、曾〔かつ〕ては祖々〔おやおや〕の胸を煽〔あふ〕り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。

 

ちなみに、このようにして折口信夫が現在の、三重県志摩市に位置し、熊野灘と遠州灘の境に突き出した、大王崎(だいおうざき)の風に吹かれたのは、今から数えて100年余り前の、私たちの国の年号が明治(45年)から大正(元年)へと切り替わる、1912年のことである。当時、折口信夫は大阪の、府立今宮中学校の嘱託教員を務めており、この旅にも、二人の教え子が伴われていた。実は、僕自身も今から20年ほど前に、この岬(みさき=御崎)を訪ねて、いろいろ物思いに耽ったことがある。まあ、それが結果的に、どのような「もの」(物=者=鬼)への思いであったのか、もう今となっては、よく思い出すことも叶わないけれども、少なくとも、この折の僕の旅の目的が、ほぼ80年ばかりの時を隔てた、はるかに遠い、折口信夫の旅への追慕であったことだけは、はっきりしている。

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