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熊野学事始(第七話)――「教養」の来た道(102) 天野雅郎

明治から大正へと、私たちの国の年号が切り替わるのは、西暦(=西洋暦)に置き換えれば、1912年のことであり、厳密に言うと、それは今から数えて102年前(......遠い昔のことなのかな? 近い昔のことなのかな?)のことになる。なお、このようにして私たちの国の年号は、正式には孝徳(コウトク)天皇の大化(タイカ)元年(西暦645年)から始まり、文武(モンム)天皇の大宝(タイホウ・ダイホウ)元年(西暦701年)以降は続けて、長く見積もれば1369年間、短く見積もれば1313年間、存在していることになる。そして、その際の用字には必ず、中国の古典が使われ、それを勘文(カンモン・カンブン)し、討議した後、改元の詔書が天皇の意志を明示した公文書という形で公示されることになる。例えば、つい先日の衆議院の解散の時や、その後の総選挙の施行の際のように。

ちなみに、現在の「平成」という年号は、どうやら司馬遷(シバ・セン)の『史記』の「内平外成」と、それから『書経』の「地平天成」を、どちらも典拠とするらしいが、その前の「昭和」も『書経』の「百姓昭明、協和万邦」が典拠であった由(よし)。これに対して、その前の「大正」と「明治」の場合は、いずれも『易経』の「大亨以正、天之道也」と「聖人南面而聴天下、嚮明而治」が典拠とされており、その上に、さらに「明治」には『孔子家語』の「長聰明、治五気、設五量、撫万民、度四方」を典拠に挙げる見方もある。――と言うような、ややこしい(......^^;)文面を、おそらく君は我慢して、読んでくれているのであろうけれども、このような七面倒臭い(どうして「七」なのかな?)所に、実は君や僕が生きている、この「日本」という国の秘密は隠されているのである。

したがって、このような年号(ネンゴウ)や、あるいは元号(ゲンゴウ)の中にも、君や僕が考えなくてはならない、とても重要な、大切な歴史(history=探求)の問題や、この国の社会や文化の成り立ちは、包み込まれている訳である。なお、このような形で年号が、いわゆる「一世一元」と定められるのは、君も知っての通り、明治時代以降のことであって、それ以前には天皇の即位以外にも、吉兆や天変地異が生じた場合には、その都度の改元が繰り返されたし、中世(南北朝時代)のように、それぞれの朝廷(北朝/南朝)が別々に、各々の年号を用いていた時代もあれば、このようにして天皇が、自分自身の特権(privilege=個人の法律)によって制定した年号(=公年号)とは違った、異なる年号を「私年号」として定めたり、それが「偽年号」と呼ばれたりする事態も生じている。

まあ、言い出したら天皇(訓読→すめろき・すめらぎ)が、そもそも天皇(テンノウ→「テンオウ」の連声〔レンジョウ〕変化形→中世的現象)と称されたり、どうして年号には決まった形で、いつも儒教(すなわち、儒学の教典)を中心とする、中国の経書が古典(classic=最高級)として持ち出され、引き合いに出されたりしなくてはならないのか知らん......と悩み始めると、君や僕は忽(たちま)ち、頭を抱え込まざるをえないことになる。でも、そのような頭痛の種を歴史上、この国は延々と抱え込んできたのであるから、君や僕が少なくとも、日本とは何か、日本人とは何か、という問いに興味を持ち、関心を示すのであれば、このような問いが必然的に、まさしく天皇とは何か、天皇制とは何か、という問いと結び付き、それどころか、直結せざるをえないことは分かり切っている。

さて、このような書き出しで、僕は今回も君に、折口信夫(おりくち・しのぶ)の話を聴いて貰(もら)いたい。また、そのことを通じて、例えば彼が『大嘗祭〔ダイジョウサイ〕の本義』(昭和3年・1928年)において、もともと「天皇」が「すめみま」と呼ばれていたこと、そして、その際の「すめ」が「神聖」の意味であり、一方の「みま」は「肉体」や「身体」の意味であり、この「神聖」な「肉体」や「身体」の中に、いわゆる「天皇霊」が入り込んで、宿ることで、はじめて「天皇」は「天皇」になる、と彼が考えていたこと、その意味において、このような「魂の容〔い〕れ物」こそが「天皇」に他ならない、と述べていることに注目したい。なにしろ、このような「天皇」の理解(と言うよりも、解釈)の上に、折口信夫の「熊野」への旅は惹き起こされたに違いなかったから。

実際、前回も触れたように、この折の折口信夫の「熊野」への旅は、私たちの国の年号が明治から大正へと切り替わる――と言うよりも、厳密に言えば、切り替わった後の、大正元年8月13日から8月25日まで、結果的に2週間近くを費やして、行なわれたものであった。詳しく言うと、この時を遡ること、ちょうど2週間前の7月30日の夜、午前0時43分......これまた厳密に言えば、その前日の夜、午後10時43分に明治天皇が亡くなり、それが宮内省から、2時間遅れで報じられ、その1時間前には皇太子、嘉仁(よしひと)親王への践祚〔センソ〕の儀も執り行なわれた後、私たちの国の年号は、明治から大正へと改元されることになる。ついでに、ここから明治天皇の「大喪の礼」の日が訪れて、あの乃木希典(のぎ・まれすけ)の「殉死」事件が起きるのは、9月13日のことであった。

この間の経緯については、これから徐々に時間を狭(せば)め、いろいろな人物の目線を通じて、僕は君に、今から100年ばかり前の、この「日本」という国の歴史(history=物語)と、そこに「もの」(物=者=鬼)語られている、さまざまな社会や文化や、何よりも、人間の立居(たちい=起居)振る舞いのアレコレを知って欲しい、と思っている。そこで、まず今回は再度、折口信夫が『異郷意識の進展』(大正5年・1916年)の中で想い起こしている、彼の「熊野」への旅の記憶を、振り返っておくことにしよう。――「何時如何〔いか〕なる処にも、万物の起源、手近くは、人間の起りに就〔つ〕いて、驚異の心を起さぬ者はないであらう。そこに説明神話が生れて来る。わたしは暫〔しば〕らく、其〔その〕神話の海に身を投じて、祖先の感情生活の波のまにまに、漂うて見よう」。

この海と、この波が、そのまま折口信夫の眼前に開け、そこに熊野灘と遠州灘を分かちつつ、同時に結び付けることにもなる、例の大王崎(だいおうざき)の海であり、波であったことは、繰り返すまでもない。要するに、この旅の経験(experience=実証)を踏まえることで、はじめて折口信夫の目には、彼の物語る「異郷」や、その名の通りの「妣が国」や「常世」は姿を見せたのであり、そのような実見や実感が母胎となって、いわゆる「折口学」は産声(うぶごえ=初声)を挙げることになる。その意味において、この一文が再度、共通の言い回しで、前回の『妣が国へ・常世へ』のフレーズを反復しているのは印象的である。そして、それは折口信夫に言わせれば、はるか「明治大正の御代〔みよ〕の〔、〕われわれにも亦〔また〕、脈搏〔みやくはく〕の絶えない感情の的である」。

 

われわれの祖先が、この国に移り住む以前にゐた故土、即〔すなはち〕、其地について理想化せられた物語りが父祖の口から伝へられてゐた、郷土に対する恋慕の心は、強い力を以〔もつ〕て、千年、二千年まへの祖々(オヤオヤ)を支配してゐたばかりでなく、今尚〔なほ〕われわれの心に生きてゐる。〔改行〕数年前、熊野に旅して、真昼の海に突き出た大王个崎〔だいわうがさき〕の尽端〔じんたん〕に立つた時、私は〔、〕その波路〔なみぢ〕の果〔はて〕に、わが魂の〔、〕ふるさとがあるのではなからうか、といふ心地が募〔つの〕つて来て堪〔た〕へられなかつた。これを、単なる詩人的の感傷と思はれたくはない。これはあたゐずむ〔間歇遺伝〕から来た、のすたるぢい(懐郷)であつたのだと信じてゐる。

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