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ほほほほ......と笑う人(第二話)――「教養」の来た道(109) 天野雅郎

この数日、やっと脇腹の痛みが退(ひ)いてきた。出向いた先の病院の、医者の見立てでは、おそらく痛みが退くのは三週間後......と言うことであったので、そのままピッタリと、今日は転倒してから三週間目の、日曜日である。――と言う訳で、いささか今日は気分も爽快であるから、僕は再度、夏目漱石(なつめ・そうせき)の『草枕』に立ち返り、あの「那美さん」の話を、君に聴いて貰(もら)いたい。なお、この『草枕』という小説は、すでに君にも伝えておいたように、明治39年(1906年)の7月の終わり(26日)から、8月の始め(9日)に掛けて書かれたものであって、わずか半月の間に仕立て上げられた、その意味において、僕の脇腹の痛みが退くよりも、ずっと早いスピードで物(もの)された、何とも物(もの)すごい、物々(ものもの)しい成り立ちの小説なのである。

ちなみに、漱石個人は夏が、大の苦手(にがて)であり、この『草枕』も夏の暑い盛りに、彼自身も相当に無理をして、頑張って書き上げたものであるらしい。と言ったのは、この作品の収められている、岩波書店の『漱石全集』の小宮豊隆(こみや・とよたか)の解説を、僕が受け売りをしているからに過ぎないが、その解説によると、この作品は「漱石の嫌ひな夏の、暑い〔、〕さ中のことではあり、夏休みで来客もある中を、半月も集中して書かうとし、また書いてゐれば、肉体的に〔、〕まゐつてしまひさうな気がして、一日も早く〔、〕これを切り上げてしまひたかつた」由(よし)。それにしても、まだ当時は大学(東京帝国大学!)の教師をしていた漱石には、どうやら「夏休み」があり、その休みの間に集中して、このようにして小説を書くことも叶ったのであるから、羨ましい限り。

ところで、このようにして夏が苦手......と言う風にして使う、この「苦手」(にがて・にがで)という語が、その字面(音読→ジメン、訓読→じづら)の通りに、もともと「常人とは異なり、不思議な力を持つ手。その手で押えると人は腹痛が治まり、ヘビは動けずに捕えられる〔、〕などという」語であったことを、君は知っていたであろうか。――と、このような語釈を一番目に据え、そこに江戸時代の用例を並べた後、続けて二番目に「自分と気が合わず、好ましくない相手。転じて、自分にとって得意でないもの。不得手〔ふえて〕」という語釈を置いているのは、このブログで繰り返し、僕が使っている、例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)であるけれども、実は、この二番目の語釈の用例に、これまた『日本国語大辞典』が挙げているのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』であった。

ああ、このような「苦手」で、僕も三週間前に脇腹を擦(さす)って貰っていたら、ひょっとして腹痛(?)も治まっていたのかなあ(......^^;)と振り返りながら、さて今回の『草枕』の話題は、前々回と同様に「那美さん」の笑い声である。すなわち、この小説の中で「那美さん」が、もっぱら平仮名で「ほほほほ」とか、片仮名で「ホホホホ」とか声に出し、笑う時、その笑い声が決して、主人公である「余」(よ)の「はははは」や「ハハハハ」という笑い声ではなく、いつも決まって、それが「ほほほほ」や「ホホホホ」であることに、僕は興味があるのである。とは言っても、このような笑い声を「那美さん」が立てるのは、彼女が基本的に、この小説の中で女性の役回りを演じているからに他ならず、それが男性の役回りを演じている「余」の、対極にあったことは言うまでもない。

もっとも、このようにして常識的な、御座形(おざなり)の、男性と女性との識別の仕方に対して、漱石自身が違う視線を持ち、別の立場を取っていたことは、この小説の冒頭においても、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの『手記』を使い、漱石自身が「余」の口を借り、はっきり述べていたはずである。――「唯〔たゞ〕、物は見様(みやう)で〔、〕どうでもなる。レオナルド、ダ、ヴィンチが弟子に告げた言(ことば)に、あの鐘(かね)の音(おと)を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第で如何様(いかやう)とも見立てがつく」。なお、この部分はロシアの詩人で、哲学者でもあった、ディミトリー・メレジュコフスキーの『神々の復活』(1896年)を、漱石自身が引用したものであるらしく、その学識の深さには、あらためて驚かされる。

あるいは、この『草枕』に先立って、ふたたび『漱石全集』の末尾の、小宮豊隆の解説によると、この年の3月17日前後から、何と3月23日前後まで、わずか一週間ばかりで書き上げられた、あの『坊っちゃん』(原題→『坊つちやん』)の中にも、実は「ホホホホ」と笑う人物が登場している。......と、このように言っただけで、それが主人公(「おれ」)の赴任先の中学校の、教頭をしていた「赤シャツ」(原文→「赤シヤツ」)であることに、君は気が付いてくれる側であろうか。――それならば、とてもとても、僕は嬉しい(^O^)けれども、この「赤シャツ」は「気味の悪(わ)るい様〔やう〕に優しい声を出す男」であって、主人公から「丸(まる)で男だか女だか分〔わか〕りやしない。男なら男らしい声を出すもんだ」と、さんざん詰(なじ)られる役所(やくどころ)である。

が、このようにして「顋(あご)を前の方へ突き出して」、文字どおりに「ホホホホ」と笑う「赤シャツ」は、いくら彼が「妙に女の様な優しい声を出す人」であり、主人公から「何も〔、〕さう気取つて笑はなくつても、よささうな者だ」と非難をされても、この物語の筋立てにおいて、彼が他ならぬ「文学士」であり、おまけに「時々〔、〕帝国文学とか云〔い〕ふ真赤(まつか)な雑誌を学校へ持つて来て難有(ありがた)さうに読んでゐる」人物であることは、見逃されてはならない。なにしろ、このようにして彼は当時、まったく夏目漱石(と言うよりも、夏目金之助)と同じようにして、大学を卒業後、結果的に「四国辺〔へん〕の〔、〕ある中学校」の教師をしていた訳であり、それは見方を変えれば、間違いなく漱石自身の分身であり、戯画であったことに、なるであろうから。

ともかく、このようにして漱石自身が、わずか一年間ながら、まさしく「四国辺の〔、〕ある中学校」(愛媛県尋常中学校→松山中学校→松山第一高等学校→松山東高等学校)の教師をしていたのは、ちょうど日本と中国との間に、いわゆる「日清戦争」が勃発し、その翌年、休戦が成立し、講和条約(下関条約)の締結される、明治28年(1895年)のことである。この時、彼は数えの29歳であり、すでに東京で高等師範学校(→東京高等師範学校→東京教育大学→筑波大学)の教師をしていたにも拘らず、このようにして突然の「都落ち」をし、それから丸八年、東京を離れることになる。その間には二年半に及ぶ、イギリス留学も含まれていたが、今にして君や僕が確信できるのは、このような草枕(=旅)を抜きにして、そもそも「夏目漱石」の誕生はなかったに違いない、という点である。

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