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ほほほほ......と笑う人(第七話)――「教養」の来た道(114) 天野雅郎

今回は再度、雲雀(ひばり)の話に立ち返る。とは言っても、まず前回に引き続き、僕は以下、君に大伴家持(おおとも・の・やかもち)の「ひばり」の歌を紹介したいので、言ってみれば、前回の「うぐひす」と今回の「ひばり」は、ほぼ地続きの状態にある。と言い出すと、いかにも不釣り合いな物言いであるかのような......気がしてくるのは、やはり「ひばり」や「うぐひす」が鳥(とり)であり、そもそも空を飛(と)ぶものであることを、君や僕が頭の中で、あらかじめ思い描いているからなのか知らん。でも、その際に鳥が用いている翼(つばさ)や、その翼を使い、鳥が空を高(たか)く、遠(とお)く、駆け巡っている姿を眺めると、これらの日本語が悉(ことごと=尽)く、タ行(タ・チ・ツ・テ・ト)の音から組み立てられていることに、君は気が付いてくれるであろうか。

それならば、鳥の翼が元来、人間の手(て)と同じものであり、それは腕(ただむき→うで)でもあって、それを広げて、鳥は地(ち→つち)を蹴り、風(ち→かぜ)に乗り、君や僕が生きている、この世界の上方と下方を繋(つな)ぎ合わせ、その力(ちから)によって、これまで鳥が世界中で、古くから人間に何かを伝(つた)え、何かを唱(とな)え、何かを告(つ)げる、使(つか)いの役目や便(たよ)りの機能を果たす存在として認知され、信じられてきたことを、君は理解してくれているに違いない。要するに、このようにして鳥は、そこに鳥が姿を見せ、鳴き、響(とよも)すだけで、その鳥に何かを、君や僕は問(と)い、訊(たず)ねざるをえなくなる、その点において、鳥は神秘的な、霊(訓読→ち、音読→レイ)や魂(たま→たましひ)を、連想させる存在なのである。

 

我が宿の/いささ群竹(むらたけ)/吹く風の/音(おと)のかそけき/この夕(ゆふへ)かも(巻第十九、4291)

うらうらに/照れる春日(はるひ)に/ひばり〔原文:比婆理〕上がり/情(こころ)悲しも/ひとりし思(おも)へば(同上、4292)

ひばり〔原文:比婆里〕上がる/春方(はるへ)と明(さや)に/なりぬれば/都(みやこ)も見えず/霞(かすみ)たなびく(巻第二十、4434)

 

なお、一番目の歌は直接に、そのまま「ひばり」を詠んだ歌ではないけれども、前回の「うぐひす」の歌(4290)の次に置かれている歌であって、その関係上、二番目の「ひばり」の歌との間を繋ぐ、いたって有名な歌でもあるので、ぜひとも君には知っておいて欲しく、この場に引いておくことにした次第。また、そもそも『万葉集』において、このようにして「ひばり」を詠んだ歌は計三首に過ぎない。しかも、その内の二首が上記の歌であり、残りの一首も三番目の歌と、まったく同じ場で詠まれた、安倍沙美麻呂(あへ・の・さみまろ)の歌(朝な朝な/上がるひばり〔原文:比婆理〕に/なりてしか/都に行きて/はや帰り来む)であったから、結果的に『万葉集』において「ひばり」を詠んだ歌は、ことごとく大伴家持の目の前で、作り上げられた「ひばり」の歌であったことになる。

また、これらの「ひばり」の歌に共通しているのは、いずれも「ひばり」が「上がる」とか「上がり」とか、ほぼ同じ言い回しを伴っている点である。この点については、これまた「ひばり」が前回の「うぐひす」と同様、繁殖期になって、雄(おす)が空高く、囀(さえず)りながら舞い上がっていく、いわゆる「揚雲雀」(あげひばり)のことを指し示している。そして、このような「ひばり」の生態の、晴れた日に特有の行動から、日本語の「ひばり」(日晴=ひばれ)という呼び名も産み出されることになったらしい。が、僕自身は単純に、幸田露伴(こうだ・ろはん)の『音幻論』の、鳴き声説の信奉者であって、もともと「ひばり」は日本人の耳に、そのまま「ピパリ」と聞こえており、これが後には「ヒバリ」になったのではなかろうか、と思うけれども、さて君は、いかがであろう。

ちなみに、夏目漱石(なつめ・そうせき)の『草枕』にも、このような「ひばり」の生態を活写した、漱石一流の名文が含まれているから、ご一読を。――「忽(たちま)ち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下(みおろ)したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。只(たゞ)声だけが明らかに聞える。せつせと忙(せは)しく、絶間なく鳴いて居る。〔中略〕あの鳥の鳴く音(ね)には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、又(また)鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。其上〔そのうへ〕どこ迄〔まで〕も登つて行く、いつ迄も登つて行く。雲雀は屹度〔きつと〕雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句(あげく)は、流れて雲に入(い)つて、漂(たゞよ)ふて居るうちに形は消えてなくなつて、只声丈(だけ)が空の裡(うち)に残るのかも知れない」。

ところで、このような「ひばり」についての一節を、漱石自身は日本的な、ひいては東洋的な文脈(context=織物)の中から、紡ぎ出しているのでろうか。それとも、むしろ西洋的な文脈の中から、縫い上げているのであろうか。......と言い出すと、この線引きは漱石自身の内面において、それほど明瞭ではなく、ある面において、それは『万葉集』の昔から、和歌や俳諧に詠まれ続けてきた、きわめて日本的な「ひばり」でありながら、その反面、それはシェリーの詩や、あるいはハイドンやメンデルスゾーンの音楽に登場する、いたって日本的ではない「ひばり」でも、ありえたはずであり、この点が例えば、より日本的な「うぐひす」や「きじ」(雉、雉子→きぎし・きぎす)との間に横たわる、ある種の微妙な差異でもあって、それは『草枕』の細部にも、妖しい姿で、影を落としている。

と言ったのは、すでに君にも伝えておいたように、このようにして「ひばり」の鳴き声を「魂の活動」として捉え、そこでは「魂全体が鳴くのだ」と、この鳥の振る舞いを熟知していたはずの主人公(「余」)が、どうして「うぐひす」の鳴き声に関しては、それが「本当の歌」であることを、あらためて「那美さん」の口から教えられる必要があったのであろう。また、この二人が部屋で一緒に、いわゆる「非人情」な小説の読み方をしている時に、そこに突然、地震が起きて、すれすれになるまで二人の体が近寄ると、どうして「キキーと鋭(する)どい羽轉(はばたき)をして一羽の雉子が籔の中から飛び出す」必要があったのであろう。――「雉子が」と余は窓の外を見て云ふ。〔改行〕「どこに」と女は崩した、からだを擦寄(すりよ)せる。余の顔と女の顔が触れぬ許(ばか)りに近付く。

もちろん、この場面で実際に、この二人は地震に遭遇しているに違いない。が、その際の地震が「那美さん」の、ほかならぬ「動詞」という語や「沢山」という語や、要するに、山が動く......という語によって惹き起こされ、この語の後に「轟(ぐわう)と音がして山の樹が悉(ことごと)く鳴る」のは、あまりに偶然に過ぎはしないのか。また、この時、二人が「思はず顔を見合はす途端に、机の上の一輪挿に活けた、椿がふらふらと揺れる」のは、何故なのか。と言い出すと、この地震も、そこに雉子が「キキー」と藪の中から飛び出してくることも、すべて僕には、それが「那美さん」の仕組んだ、仕掛けのように、感じられてくるのであるけれども、このような小説の読み方をしていると、それこそ「非人情ですよ」と、きつく「那美さん」に睨(にら)まれてしまいそうで、不安である。

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