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歌よみに与ふる書(承前)――「教養」の来た道(116) 天野雅郎

歌よみに与ふる書――という表題は、当然、正岡子規(まさおか・しき)の同名の歌論を借り受けた、と言うよりも、いわゆる「パクッタ」ものに他ならないが、この歌論自体は明治三十一年(1898年)に正岡子規が、新聞(『日本』)紙上に十回に亘って連載をしたものであり、あの「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて『古今集』は〔、〕くだらぬ集に有之候」という過激な論調によって知られている。当時、子規自身は数えの三十二歳に当たっており、それまでの俳句革新運動......と言うよりも、この「俳句」という語自体が革新的な、近代以降の文芸用語であるから、むしろ「俳句創出運動」や、あるいは「俳句創成運動」とでも言い換えた方が、事の真相を伝えていることに、なりうるのであるが、そのような「俳句」から、今度は「短歌」への舵取りを、彼が始めた時期の論稿である。

と言うことは、これまた当然、一方の「短歌」も革新的な、近代以降の文芸用語であって、このような革新(reform=再形成)の意味や、何よりも、その雰囲気(atmosphere=大気圏)が分からないと、例えば「短歌」を古代以来の、伝統的な「長歌」と並べて、連綿と引き継がれた「和歌」の末裔と誤解してしまったり、下手をすると、そこから中世の歌学のように、愚かにも『古今和歌集』の誤記を金科玉条にして、逆に「長歌」のことを誤称してしまったり、笑うに笑えない事態が生じてしまい兼ねないから、ご用心。とは言っても、もともと私たちの国のように、このような革新(innovation=新導入)の理念に乏しく、その実現にも支障の多い場所では、宗教改革(Reformation)の一つも起こりうるはずがなく、いつも訳の分からない、創成や創出が独り歩きをし始めるから恐ろしい。

そのような、いたって日本的な風土の中で、はなはだ日本的な――と、一般に信じられている「和歌」や「俳諧」を革新し、そこから「短歌」や「俳句」を産み出そうとしたのが、正岡子規であった。と、このように......さしあたり君には、彼のことを理解しておいて欲しい。が、結果的に彼は明治三十五年(1902年)、満三十四歳の若さで、この世を去ることになるから、実は『日本』紙上に「歌よみに与ふる書」を連載し、その翌年、彼が自宅(子規庵)で「根岸短歌会」をスタートさせてから、もはや彼の人生は三年半を残すのみとなっている。事実、彼が結核を患い、それが脊椎のカリエス(caries=腐敗)まで発症するに至るのは、すでに明治二十九年(1896年)の時点であったので、この「歌よみに与ふる書」の冒頭の、源実朝(みなもと・の・さねとも)の記述は、他人事ではない。

 

仰(おほせ)の如(ごと)く近来和歌は一向に振〔ふる〕ひ不申(まうさず)候(さうらふ)。正直に申し候へば〔、〕万葉以来〔、〕実朝以来〔、〕一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざ〔、〕これからといふ処にて〔、〕あへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活(い)かして置いたなら〔、〕どんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかく第一流の歌人と存(ぞんじ)候。〔中略〕自己の本領〔、〕屹然(きつぜん)として山岳(さんがく)と高きを争ひ日月と光を競〔きそ〕ふ処、実に畏(おそ)るべく尊〔たふと〕むべく、覚えず膝(ひざ)を屈するの思ひ有之(これあり)候。

 

そして、このようにして「人の上に立つ人にて文芸技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之(これなく)候」と、正岡子規は鎌倉幕府の、この三代将軍を評価し、また、わずか満二十六歳で暗殺された、この槐位(右大臣)のことを追慕する。さらに、その理由として「実朝の歌は〔、〕ただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚(こ)びざる処、例の物数奇(ものずき)連中や死に歌よみの公卿(くげ)たちと〔、〕とても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠(よ)みいでられまじく候」と、この『金槐(きんかい=鎌倉の「金」+槐位の「槐」)和歌集』(建暦三年→1213年)の歌人に対して、絶大なエール(yell=声援)を送っている。

このような文章を読むと、君や僕の生きている時代には、何と、このような歌人が乏しいのであろう、と嘆かざるをえないが、それは単純に「歌」と称される「文芸技芸」(要するに、芸→藝)が君や僕の生きている時代には衰亡の極みに達してしまったからなのか知らん、それとも、そのような「藝」(=植樹→白川静『字統』1984年、平凡社)に見合う人間が――要するに、正岡子規の言う「人間として立派な見識のある人間」が、君や僕の生きている時代には生まれ、育たない理由があるからなのか知らん、あるいは、そのような人間(すなわち、人物)を始めとして、ことごとく植物や動物も含めて、あらゆる自然の「物」(もの)や「事」(こと→言、琴、異、殊)が、そもそも「歌」に相応しくない姿で存在しているからなのか知らん、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。

ともかく、このようにして振り返ると、僕は正岡子規が今から126年前の、明治二十二年(1889年)に結核となり、吐血をし、そのことで自分自身を「子規」と号し、かつて中国の伝説において、この世を憂え、口から血を滴(したた)らせながら空を飛んだ......とされている、その名の通りの「吐血鳥」である「子規」(ほととぎす→杜鵑、時鳥、郭公、不如帰)となって生き、若くして死んでしまったことを、まったく他人事(ひとごと)とは感じられないし、もともと日本語の「ひと」という語自体が、他人という意味でもあれば、自分という意味でもあり、そこから次第に、この語が「その自他を合せて、のち人間一般をいう語となる」(白川静『字訓』1987年、平凡社)経緯については、このブログ(第106回:他人の数学)においても、僕は君に、あらかじめ報告を済ませておいた次第。

ところで、そのような正岡子規が追慕し、評価した、源実朝の歌が今回も、また『百人一首』には採録されている。この歌は、そもそも藤原定家(ふじわら・の・さだいえ)が単独で撰者となり、いわゆる十三代集の一番目に、勅撰和歌集としては九番目に当たる、あの『新勅撰和歌集』(巻第八、525)の「羇旅歌」(きりょのうた)の中に収められている歌であり、それは文字どおりに旅(たび=羇・羈)の歌である。が、このような旅の歌が『万葉集』では、数々の名作を産み出したのに比べて、それが『古今和歌集』以降、部立(ぶだて)となり、巻名となったにも拘らず、例えば『古今和歌集』においては、わずかに16首のみの、集中で最小の巻であったことからも窺えるように、いかに平安時代の貴族にとっては、旅が縁遠いものとなり、歌の場とはなりえなかったのかが、判然とする。

ところが、そのような旅の歌が俄(にわか)に、勅撰和歌集において復活を遂げるに至ったのは、藤原俊成(ふじわら・の・としなり)を撰者とする『千載和歌集』(文治三年→1187年)以降のことであり、振り返れば、その次の『新古今和歌集』(元久二年→1205年)と『新勅撰和歌集』(文暦二年→1235年)を経て、はなはだ重要な地位を、ふたたび旅の歌は占めることになる。と言うことは、それが丁度、日本の古代から中世への転換期(ターニング・ポイント)に当たり、そのような転換期が歌の世界にも、はっきり影を落としているのが見て取れる。そして、そのような巨大な、歴史の渦と、歌の世界の狭間(はざま)に生き、若くして命を落とすことになったのが源実朝であり、その点も踏まえつつ、僕は『百人一首』と並べて、前回同様、その「現代詩訳」(宋左近)を君に伝えたい。

 

世のなかは/つねにもがもな/渚(なぎさ)こぐ/あまの小舟(をぶね)の/綱手(つなで)かなしも

 

渚を漕いでゆく小さな漁船が綱手に曳〔ひ〕かれてゆくありさまが、じつにしみじみとこころにしみる。ああ、世のなかは、いつまでもこのままであってほしい。

 

日が落ちた/夕焼けも燃えない/凪〔な〕いでいる海の沖から/漁終えた小舟が一叟/暮れおくれた波にのり/濡れている綱手にひかれて/横ざまに渚をすべっている/夕暮れは青く水脈(みお)に光って/二つに分れてゆれてから/夢のようにゆっくり縫い閉じられようとして

 

月はまだのぼらぬ/星はまだまたたかぬ/ああ夜も落ちてはならぬ/風も吹きおこってはならぬ/この静けさ この静けさのままであれ/家々から夕餉(ゆうげ)の煙が白く/流れ出ては水際(みぎわ)の上でふいに/なか空に紫陽花色(あじさいいろ)に溶けてただよっていて/ああ自然がかすかに吐息(といき)を/洩〔も〕らそうとしている一瞬よ/永遠に一瞬のままでとどまれ

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