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山のビブリオグラフィー(第六話) ――「教養」の来た道(145) 天野雅郎

話は多少、相前後するけれども、そもそも日本人が山に関心を持ち、山に登り始めたのは、いったい何時の頃からなのか知らん。......と訊(き)かれても、そんなこと(`^´)分かるはずがありません、と不機嫌になったり、不愉快になったりするのは、ひょっとすると君が、あまり勉強好きではない証拠なのではなかろうか、と僕は拝察するが、このような問い掛けにも多大の関心を示す、文字どおりの「山好き」はいるのであり、例えば自然地理学者(physical geographer)の小泉武栄(こいずみ・たけえい)の『登山の誕生』(2001年、中公新書)を読むと、そのような「わが国の登山第一号と見なされる」例が、考古学者(archaeologist)の藤森栄一(ふじもり・えいいち)の『かもしかみち』(1967年、学生社)を引用しつつ、次のような形で紹介されているので、ご一読を願いたい。

 

日本人は登山を〔、〕いつ始めたのだろうか。〔中略〕一九三〇(昭和五)年の六月、長野県諏訪に住んでいた在野の考古学者〔、〕藤森栄一は、八ヶ岳連峰の南端にある編笠山(あみがさやま、二五二四メートル)から下る途中、海抜二四〇〇メートル付近で一個の黒曜石の鏃(やじり)を拾った。ハイマツ帯が終わり、亜高山の針葉樹林帯に〔、〕かかろうとする地点である。ここは山頂に近く、シカやイノシシなど、狩の獲物が生息する標高を〔、〕はるかに越えている。このことからみて藤森は、この鏃の落とし主は狩猟を目的として〔、〕こんなに高いところまで登ってきたのではなく、やはり山頂をめざして〔、〕やってきたのだろうと考えた。これが〔、〕わが国の登山第一号と見なされるものであるが、藤森は〔、〕この時の感動を次のように述べている。

 

という前置きで、この場において小泉武栄が紹介している、藤森栄一の引用は以下の通りである。いわゆる孫引きで、恐縮ではあるが、ご容赦を。――「これは当時の私たちには想像すら〔、〕できなかった事実で、その石やじりを、この高いところまで持ってきた、おそらくは大きなエポックに値したであろう彼らの冒険と努力にたいし、驚嘆と尊敬を惜しまなかったものであった。この記録は〔、〕その後〔、〕今日にいたるまで実に私の知りえた最高の彼らの足跡である。おそらくは神秘な、一種信仰的な威圧をもって彼らの頭上にそびえていたであろう峻峰へ、うっそうたる原始林を、金属器を持たなかった彼らが、わずかに石で作った貧弱な利器のみで切り開いて、この高所に達したのである。その驚くべき忍耐と努力とは、当然、登山史の第一ページにあげられてしかるべきであろう」。

さて、このように述べられている「彼ら」が、いわゆる縄文時代の人間(すなわち、縄文人)であることは、言うまでもない点であるが、その縄文時代が推定で、今から12,000年前とか13,000年前とかに始まり、それが終わるのは紀元前3世紀の頃であり、そこには途轍(トテツ)もない、気を失いそうな時間が流れている以上、はたして「彼ら」が縄文時代の、どの段階の縄文人であったのかは、まったく分かっていない。それに、このような「縄文」という命名(ネーミング)自体が、もともと例の「大森貝塚」を発掘した、エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylvester Morse)に由来するものであり、その際の土器(Cord Marked Pottery)に「縄文土器」という訳語が宛がわれるのも、この藤森栄一の発見した「登山史の第一ページ」からは、はるかに後のことになるのである。

ともかく、このようにして日本人が......と言うよりも、そのような「日本人」が誕生する以前の、はるかに昔、昔の日本人が、何らかの理由で山に登ったことは確かなことのようであり、それを「登山目的」と称することには、かなり突飛な感じが、伴われるのかも知れないけれども、おそらく「そこには彼らに〔、〕さまざまの恵みを与えてくれる、山に対する信仰心が先にあったにしても、それ以外に、山頂に立って辺りを見回し、山の向こうにあるものを〔、〕みてみたいという、好奇心のようなものが間違いなくあったはずである」(小泉武栄『登山の誕生』)と推測することには、それほど困難は伴われないのではあるまいか。もっとも、はたして彼らを結果的に、このような「登山」へと導いた、主要な原因は何であったのか知らん、と問い出すと、それほど話は容易ではないようである。

なぜなら、このように論じている、この本自体にも、いわゆる「自然崇拝」や「山岳信仰」は縄文時代を起源とするものではなく、弥生時代を起源とするものではなかろうか、と述べられているからである。言い換えれば、このブログ(第140回:山のビブリオグラフィー)においても、すでに君に紹介しておいた、あの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の第一の語釈のような「山」(「日本では古来、神が住む神聖な地帯とされ、信仰の対象とされたり、仏道などの修行の場とされたりもした」)は、その「崇拝」や「信仰」の成り立ちを古く、縄文時代にまで遡ることは可能であるにしても、それが明確に「神」や「仏」と結び付き、要するに、そのような形で「山」が神格化(deification→「デウス」化→「ゼウス」化)をされるに至るのは、もっぱら「農耕の伝播以降」のようである。

とは言っても、その際の「農耕」(agriculture=農地耕作)の伝播とは、当然、稲作という文化(culture)の伝来のことであったから、これが現在の推定では、どうやら弥生時代の枠には収まり切らず、むしろ縄文時代の終わりまで、その伝来の時期を辿らざるをえない以上、ここで縄文時代と弥生時代の間に、はっきり線引きをすることは叶いそうにない。が、少なくとも「農耕が始まって、人が低地に定住するようになると、山は必然的に日常生活からは縁遠いものになった」ことは、疑いようがなく、例えば「猟師や樵(きこり)、木挽(こび)き、木地屋(きじや)などといった職業の人を除けば、人々が生活上の必要から山へ入ることは〔、〕もはや〔、〕ほとんどなくなり、山は遠くから仰ぎ見るだけの存在になった」(同上)ことは、おそらく今の、君や僕も納得せざるをえないはず。

翻れば、このようにして山が、かつての縄文時代のように、狩猟や採集にとっては直接の、必要不可欠の生活の場ではなくなり、その結果、大半の農耕生活者(と言うよりも、稲作従事者)の日常からは、遠く離れたものに姿を変えてしまったことで、逆に山は「崇拝」や「信仰」の対象となり、それが次第に「神」や「仏」と結び付く、重要な契機となりえた訳である。その意味において、このような「人間の日常生活や水田耕作にとって欠かすことのできない水は、山から流れ出す川によって〔、〕もたらされる。そして〔、〕この川は〔、〕ひとたび怒ると、田を押し流し、人の命を奪い去る恐ろしいものでもあった。こうして山は、縄文時代とは違って、日常生活からは隔絶しているにもかかわらず、生活を支え、同時に脅威を与える存在として、崇拝の対象になっていくのである」(同上)。

ちなみに、このような姿で荒れ狂い、さながら鬼(訓読→おに、音読→キ)のように怒り出す、いわゆる「暴れ川」の代表が、そのまま鬼怒川(きぬがわ)と表記されるのは明治時代以降のことであり、それ以前には、ある時には「衣川」や、ある時には「絹川」と、この川は表記されていたのであって、それが一方では語源的に、和歌山の紀ノ川(きのかわ)と繋がりのある川であったことも、君や僕は想い起こすべきであろう。なにしろ、そうであるからこそ、かつて有吉佐和子(ありよし・さわこ)も一連の「川もの」として、昭和三十四年(1959年)に『紀ノ川』を、昭和五十年(1975年)に『鬼怒川』を、執筆したに違いない。なお、もともと鬼怒川が「衣川」や「絹川」と表記されていたのは、この川の流域が、例の絹織物の、結城紬(ゆうきつむぎ)の特産地でもあったからである。

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