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臼井吉見論(拾遺)――「教養」の来た道(148) 天野雅郎

前回、僕が君に伝えておいた、臼井吉見(うすい・よしみ)の「幼き日の山やま」に登場する「常念校長」は、実は知る人ぞ知る、けっこうな有名人(celebrity→celeb)であり、ひょっとすると君が、臼井吉見の本を何冊か、読んだことがあるのなら、この「常念校長」のことも、どこかで見聞済みであったのではなかろうか。なにしろ、この随筆(エッセイ)の発表された、翌々年の昭和五十一年(1976年)に刊行された『教育の心』(毎日新聞社)においても、この「常念校長」は二度に亘(わた)り、ほとんど同じ文面ではあるが、いささか詳しい説明を施され、この当時の「保守的で、伝統的な」教育の、さながら権化(ゴンゲ)のような人物として、その風貌も「漆黒の長い〔、〕あごひげのある、眼光烱々〔ケイケイ〕たる、国士ふうで」あったことが、繰り返されているからである。

が、おそらく国士(コクシ)と言っても、まったく君にはイメージが湧(わ=涌)かないであろうし、困ったことに僕自身も、このような「一国の中で〔、〕すぐれた人物。国家にとって有用な人物。また、自分の身を〔、〕かえりみないで、国事に尽くす人」(『日本国語大辞典』2006年、小学館)を、これまで一度でも目にしたことがあるのか、と訊(き)かれれば、その答えに窮せざるをえない始末である。ましてや「うるし〔漆〕で染めたような、まっ黒な〔、〕あごひげが、胸の〔、〕まん中あたりまで〔、〕たれさがっている、いかめしい先生」と、これまた昭和四十二年(1967年)の講演(「自分をつくる」)の中でも述べられている――そのような「先生」には、これまでの人生において、残念ながら遭遇した試しがないのであって、それを残念の一言で、済ますことが出来るのか、どうか。

きっと子供の頃、このような「先生」の姿に身近に接することが叶っていれば、僕のダラダラした性格も治り、いつも背筋をシャキッと伸ばすことが......できるはずもないかな(^^;)僕の場合は。ちなみに、この「常念校長」は本名を、佐藤嘉市(さとう・かいち)と言って、現在の長野県の飯山(いいやま)市の出身であり、この当時の長野県師範学校(現:信州大学教育学部)を卒業後、彼が臼井吉見の在学中である、掘金(ほりがね)小学校の校長になるのは、大正五年(1916年)のことである。そして、それから足掛け四年の間、この小学校の校庭で毎週、月曜日の朝礼の時間が来ると、いつも彼は執拗に、繰り返し「常念を見よ!」と語り続けた訳である。それこそ「くる週も、くる週も、春になり、夏になり、秋になり、冬になっても」この「常念を見よ!」は、止むことがなかった。

とは言っても、このようにして少年時代、絶大な影響を受けた「常念校長」のことを、臼井吉見は決して揶揄(ヤユ)している訳でも、非難している訳でもない。そのことは、この「常念校長」のことを何度も、このようにして彼が随筆でも、講演でも小説でも、言及し続けている点からも明らかであろう。もっとも、それは一方で、彼の周囲に「白樺流〔=白樺派〕の人道主義〔=自由主義〕的教育」が全盛を極めていたことと、裏表の関係にもあったのであり、そこでは「芸術だとか、生命だとか、人類だとか、永遠だとかいうような、極度に抽象化された言葉が、あんなに〔、〕なまなましく、小学校の子どもにむかって、しばしば語られた時代は、前にも〔、〕なかったろうが、これからも再び〔、〕あるはずはない」(『教育の心』)という事実が、忘れられてしまってはならないのである。

実際、そのことを臼井吉見は、ちょうど「幼き日の山やま」が発表されたのと同じ、昭和四十九年(1974年)の講演(「人生観はおしつけられない」)においても、ふたたび取り上げていて、そこでは「およそ教育の中軸は、自己教育だと思いますが、その自己教育の中核は、自分と異質な人間との対話です。異質な人間と〔、〕いつも向き合っていること、反対意見を〔、〕いつも対置すること、それ以外には、自分を反省する手はないでしょう。こういうことがなかったら、人間は人間でなくなると思うのですが、どうでしょう」――と問い掛けながら、翻って「いま、目に浮かぶのは、ぼくの小学時代の校長の面影です」と語り出し、またもや「月曜ごとの朝礼の〔、〕あいさつは、常念を見ろ! の一点ばりだった」......彼の六十年近くも前の、懐かしい小学校の校庭へと、話は飛ぶのである。

おそらく、このような臼井吉見の述懐から、君や僕が一番、振り返らなくてはならないのは、はたして現在の君や僕の周囲に、このような形の「自己教育」(self-education)は成り立っているのであろうか、という点であろう。そして、そのような「自己教育」が例えば、この当時の若い世代の中に芽生えていた、トルストイを読み、ベートーヴェンを聴き、はたまたゴッホやロダンを語る、それ自体は至って、抽象的で理念的で、場合によっては現実離れも甚だしい、いわゆる自由主義(liberalism)や人道主義(humanism)の立場――要するに、明治四十三年(1910年)に創刊された『白樺』によって先導し、主導された立場と、その一方で、より古い世代の中に根付いている、保守主義(conservatism)や伝統主義(traditionalism)の立場が、お互いに「共存」をしていた点であろう。

もちろん、このような回想は臼井吉見の、いたって個人的な、思い込みに過ぎないのかも知れないし、はなはだ感傷的な、思い入れに過ぎないのかも知れない。が、少なくとも僕自身が、みずからの小学生の頃や中学生の頃や高校生の頃や、ひいては大学生の頃を想い起こすに付けても、この類いの「自己教育」と、その「中核」にある「自分と異質な人間〔いわゆる、他者〕との対話」が......どんどん希薄になっていったことは、紛(まが=擬)いもない事実であり、その意味において、僕が今回、ふとした偶然で臼井吉見の、この講演集(『自分をつくる』1979年、筑摩書房)を手に取り、読み直し、そこに書かれている「教育の荒廃」や「人間そのものの荒廃」を顧みざるをえなかったのは、それが端的に「安全保障よりも、ぐんと切実かつ緊要な問題」である以上、当然の帰結であった。

ところで、この『人間をつくる』の「あとがき」においても、臼井吉見が「この講演集は、たった一つのこと――自家発電の必要と、そもそも発電は、陽極と陰極とが共存しなくては起こらないことを〔、〕くりかえし〔、〕むしかえし、訴えているようで、われながら〔、〕おかしいのです」と述べているように、僕自身も「三つ子の魂、百まで」の譬(たとえ=喩)の通り、これまでの人生を振り返り、いつまで経っても大人(訓読→おとな、音読→タイジン)には、なり切れない僕が、どうやら君を始めとする「大学生」に向かって言いたいのは、そもそも大学は「人間をつくる」場所であり、もっぱら「われわれ日本人」の、大多数の「大人」のように、逆に「自分の頭で〔、〕ものを考えることに無精」な人間を、安易に、安直に、産み出す場所であってはならない、という点であるらしい。

 

  まれまれは

  ここに集(つど)ひて

  いにしへの

  あたらし人の

  ごとく はらばへ〔※〕

 

〔※〕臼井吉見の『人間をつくる』の「あとがき」には、その末尾に釈迢空(しゃく・ちょうくう)こと折口信夫(おりくち・しのぶ)の歌が引かれているので、この場に掲げておく。......「いま、ぼくは一つのブロンズ像を思い浮べています。〔中略〕開智学校の近くに、塩尻・東筑教育会館というのがあって、その前庭に、腹ばいに寝そべっている物臭太郎の少年像があって、それに釈迢空の一首が刻まれているのです。〔中略〕物臭太郎は、信濃の〔、〕あたらし村の出身ということになっています。東筑摩の新村(にいむら)だろうというので、そこに碑があります。ぼくは郷里の先輩として、かねて物臭太郎君を〔、〕ことのほか敬愛しています」。

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