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臼井吉見論 ――「教養」の来た道(147) 天野雅郎

シルバー(シルヴァー?)ウィークなのだ......そうである。もう一方のゴールデンウィークについては、このブログ(第67回:黄金週間、風と共に去りぬ)でも、その成り立ちを僕は、すでに君に紹介済みであるから、くりかえすことは控えたい。が、こちらのシルバーウィークも実は、ほぼゴールデンウィークと同じ、昭和二十年代の後半(すなわち、1950年代の前半)には生まれていた語であって、その歴史自体は、いわゆる還暦を過ぎている。ただし、この語が日常的に多くの人の口から飛び出すようになり、いまだ僕の口からは愚図愚図(グズグズ)と、飛び出し兼ねているのは、どうやら平成二十年(2008年)以降のことらしく、その程度のシルバー(silver=白銀)であるのなら、別段、僕が敬意を表するには及ばないであろうし、このままの愚図愚図を、僕自身は続けていく所存。

とは言っても、自分自身が周囲の目には、まさしくシルヴァー・ヘアー(silver hair→英語)の髪を、気にしなくてはならない年齢に達しており、シルバーマーク(silver mark=「高齢運転者」標識→和製英語)の付いた車に乗っていたり、電車やバスのシルバーシート(silver seat→和製英語)に座っていても、まったく違和感を生じなかったり、それこそシルバー産業の、かっこうの餌食(えじき)になり兼ねない年齢が近づいてくると、いろいろシルバーにはシルバーなりの、決してゴールデン・ヘアー(golden hair→英語)にはなりえず、おかしな毛染めに励む気も起きない――そのような側の言い分は、やはり存在しているのであり、ちょうど今日(9月21日)は「敬老の日」でもあるから、いささかシルバー(シルヴァー?)気分で、あれこれ思い付いたことを、書き記してみたい。

と言いながら、ふと思い付いたのが、たまたま先日、臼井吉見(うすい・よしみ)の本(『臼井吉見集〈3〉』1985年、筑摩書房)を読んでいた折の、興味深い回想であった。とは言っても、おそらく君が長野県の出身者であったり、ことさら日本の近代文学や現代文学に興味を持っていたり......しない限りは、この作家のことを、ほとんど君は知らない可能性が強いので、ここで簡単に、この作家の紹介を済ませておくのが得策であろう。その意味において、まず彼の肩書を作家と称することに、僕自身が躊躇(音読→チュウチョ、訓読→ためらい)がない訳では、ないことを、まず君に伝えておく必要がある。理由は簡単で、僕は彼の作家としての業績の、きっと筆頭に挙げられるに違いない、あの長編小説(全五巻!)の『安曇野』(1965年~74年、筑摩書房)を、読んだことがないからである。

それでは、なぜ僕が平然と、彼を作家と呼んだり、あまつさえ(←あまっさえ→あまりさえ)今回のブログの表題に、ぬけぬけと「臼井吉見論」を名乗ったりしているのか、と言えば、それは僕が大学生の頃から、この作家の編集者としての側面や、評論家としての側面に、けっこうな恩恵を受けて来たからに他ならない。と言ったのは、まだ僕が大学生であった時分には、彼の編集した『現代教養全集』(1956年~60年、筑摩書房)や『現代の教養』(1966年~67年、筑摩書房)が、あたりまえに図書館や書店の本棚には並んでおり、要するに、それは現在とは違って、いわゆる「教養」が大学生に求められ、それどころか、それを欠くと人間として、きわめて恥かしい思いを禁じえない、目下の君や僕の過ごしている大学とは、かなり違う雰囲気が、そこに残り香のように、残っていたから。

したがって、当然のことではあるが、当時は昨今の大学生や――困ったことに、教職員(teaching and clerical staff)までもが馬鹿の一つ覚えのように、呑気(のんき→暖気)に口走る「パンキョー」(一般教育→×一般教養)という語も、いまだ大学のキャンパス(campus=広場)を、大手を振って、うろつき回ってはいなかった次第。裏を返せば、そのような時代に臼井吉見は、僕にとっては小説家としてよりも、むしろ編集者や、あるいは筑摩叢書の『大正文学史』(1963年)や『近代文学論争(上・下)』(1975年)の著者(すなわち、評論家)として認識されていたのであって、そのような彼の小説家としての側面が、かなり僕の中から抜け落ちてしまっているのも、僕の「長編小説」嫌い(......^^;)は別にして、これまた当時の、時代の雰囲気として理解して貰(もら)えると有り難い。

もっとも、そのような時代に臼井吉見は、ちょうど僕が大学に入学した頃には、さらに随筆家(エッセイスト)としての側面を顕著にしていて、例えば昭和五十年(1975年)から翌年に掛けて、続けざまに刊行された『田螺のつぶやき』(文藝春秋)や『教育の心』(毎日新聞社)や、さらには『日本語の周辺』(毎日新聞社)や『肖像八つ』(筑摩書房)や『残雪抄』(筑摩書房)は、今でも我が家の本棚に置かれており、実は今回、僕が君に話を聴いて欲しいのも、そのような時代の、彼の随筆(エッセイ)の一つ(「幼き日の山やま」)なのである。と言い出すと、ようやく君は僕が、いつもの気紛れを発揮して、このブログの前回までの表題(「山のビブリオグラフィー」)を放り出し、放り投げ、話を「ややこしい」ものにしている訳ではない点に、気が付いてくれているのではなかろうか。

と言う訳で、いささか長い前置きが終わり、これから本題である「山のビブリオグラフィー」の始まりなのであるが、残念ながら、もう残されている紙幅には限りがある。そこで今回は、以下に簡単に、この「幼き日の山やま」の粗筋(あらすじ)を君に伝え、この短い文章の何に、僕が興味を持ったのかを話しておくことにしたい。ちなみに、あらかじめ示しておいたように、臼井吉見の故郷は長野県の安曇野(あずみの? あづみの?)であり、そこに現在は、彼の文学館も立てられているようであるけれども、この安曇野で彼が誕生したのは、明治三十八年(1905年)のことであり、逝去するのは昭和六十二年(1987年)のことになる。言い換えれば、この作家の故郷は昔の、信濃(しなの)の国であり、その「まわりを幾重(いくえ)にも山に〔、〕かこまれている国」であった訳である。

ところが、そのような山国(やまぐに)である「信濃で生れ、信濃で育った」彼が、驚くべきことに......と、現在の君や僕は思い勝ちであるが、その信濃の国の「山」のことを、普段から「わらびを採り、うさぎを追い、きのこを探し、すがれ蜂(ばち)を釣」る山としては、はなはだ熟知していても、その「里近くの山」の奥に聳える、例えば標高2,857メートルの「常念岳」(じょうねんだけ)に対しては、まったく名前も知らず、言ってみれば無名の、名も無い「山」として理解(?)していたことである。そして、その「山」が急に、まさしく「常念岳」という名前を伴い、いわゆる「北アルプス」を代表する高峰として姿を現(あらわ=露+顕)すのは、どうやら臼井吉見が小学校の三年生であった時分の、要するに、大正時代を迎えて五年が経った頃の、きわめて新しい経験であった。

 

常念岳の存在が大きく僕の前に姿を現してきたのは、小学校の三年生のときからであった。三年生のとき、新しい校長がきた。なりは小さかったが、目は鋭(するど)く、黒い〔、〕あごひげが胸の半ばまで〔、〕たれていた。この校長は、月曜日の朝礼には、校庭の壇上から、毎回、常念を見よ! と呼びかけた。〔中略〕朝礼といえば、きまって常念の話だった。〔中略・改行〕僕らは、いつのまにか、教科書やノートに、南安曇郡常念小学校、何学年何組、何の〔、〕なにがしと書きこむようになっていた。〔改行〕常念校長の呼びかけによって、僕らは〔、〕これまでとは〔、〕まったくちがった思いを山に寄せるようになった。おおげさにいえば、常念岳によって、新しい精神の世界を発見したのである。〔中略〕それは眺める山であり、仰(あお)ぎみる山であった。

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