ホームメッセージ15、16、17と...... ――「教養」の来た道(7) 天野雅郎

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15、16、17と...... ――「教養」の来た道(7) 天野雅郎

前回、太宰治の話の続きである、と断っておきながら、まったく太宰治には触れることがなかったので、今回は仕切り直しで、もう一度、太宰治の話を始めたい。ひょっとすると、このような状態も「老人力」が満ち満ちてきた徴(しるし)なのかも知れないけれども、君が例えば、クリストファー・ノーラン監督の『メメント』(2000年)や、あるいは小泉堯史(たかし)監督の『博士の愛した数式』(2006年)といった映画を観て、人間の記憶(メモリー)の謎めいた、不可思議な性質に思いを馳せたことがあるのであれば、僕の事例も満更(まんざら)捨てたものではない、君の鑑賞(観察?)対象になりうるのではなかろうか。――と言った辺りで、そろそろ太宰治の話に移らないと、また前回の繰り返しになる危険性が高いから、さっそく筆を起こそう。

さて、前々回に太宰治の『思ひ出』のことを書いた際、それが僕の中学生の頃の「思ひ出」に結び付く点については、すでに述べた通りであるが、この作品が同時に、太宰治の中学校時代の「思ひ出」を書き綴ったものでもあった点は、触れず仕舞いに終わっている。そこで、今回は簡単に太宰治の少年期から青年期に至る時期のことを振り返っておくと、まず彼が故郷(青森県北津軽郡金木村)の小学校(金木第一尋常小学校)に入学するのは大正5年(1916年)のことである。ちなみに、この村は現在、合併されて五所川原市の一部になっているが、それ以前には長い間、大正9年(1920年)から平成17年(2005年)まで、金木町(かなぎまち)の名で呼ばれており、いわゆる「津軽三味線」の発祥の地であると共に、当然、太宰治の故郷としても有名である。

そして、この小学校を大正11年(1922年)に卒業した後、彼が中学校(青森県立青森中学校)に入学するのは大正12年(1923年)のことになる。と言うことは、この間には一年の、いわゆる空白(ブランク)が介在していることになるが、これは空白ではなく、実は中学校に進学するための学力補充の必要から、彼が高等小学校(明治高等小学校)に通っていた時期が、ここには差し挟まっている。高等小学校とは、明治19年(1886年)から昭和16年(1941年)まで、55年に亘り、私たちの国に存在していた教育機関で、手っ取り早く言えば、小学校と中学校の中間に位置を占めるが、これを小学校の上級として捉えるのか、中学校の下級として捉えるのかで、その位置付けには大きな、差別的な違いが生まれてくる。残念ながら、太宰治の場合は後者であった。

すなわち、彼は小学校から直接、中学校に進学したのではなく、その前に、いわゆる受験予備校という形で、この高等小学校に籍を置いている。この間の事情は、彼の小学校の成績(主席・総代)を想い起こすと、よく分からない点が残るけれども、それが父親の意向であれ、彼自身の病弱な体質に起因するものであれ、ともかく数えの14歳の少年にとって、はなはだ屈辱的な一年間であったことは疑いがない。なお、彼の進学した中学校は現在、青森県立青森高等学校となり、青森県内では弘前高校と八戸高校に次いで、三番目の伝統校であるが、この順番の通りに、もともと青森県第三中学校として、明治33年(1900年)に開校し、これが翌年には青森県立第三中学校となり、明治42年(1909年)には青森県立青森中学校と名を改めるのが順序である。

このようにして跡付けると、彼は中学校に進学した際、すでに数えの15歳であり、それ以降、足掛け5年を中学生として過ごした後、彼が数えの19歳で高校(旧制、弘前高等学校)に進学するのは、昭和2年(1927年)のことになる。この段階は、ちょうど今の私たちの、高校から大学への進学の時期に当たっており、事実、当時の弘前高等学校は現在の弘前大学(Hirosaki University)の前身の一つであった。したがって、例えば......この年の夏(7月24日)に芥川龍之介が自殺し、それが太宰治に多大の衝撃を与えた事件にしても、それは高校生の反応であると共に、大学生の反応でもあったことを押さえておく必要があるし、それ以降、彼の学業成績が著しく低下し、いわゆる酒と女に溺れる日々が続くのも、それは大学生の頽廃(デカダンス)に他ならない。

同様の事態は、彼の中学生の頃にも当て嵌まる。すなわち、彼が中学校に通っていたのは、今の私たちとは違い、満年齢で見積もれば、14歳から17歳であり、例えば『思ひ出』の中で主人公と、その弟が密かに、共に「赤い糸」で結ばれていると信じた少女(みよ)のモデル(宮越トキ)が、行儀見習いの女中の一人として、彼の家に住み込むようになるのは、太宰治が16歳の時のことであり、そこから彼女に恋慕し、そのことで懊悩(おうのう)し、悶悶(もんもん)とした日々を彼――当時の津島修治が送ることになるのも、17歳から18歳に掛けての頃であった。そして、それは折しも、彼が文学に関心を示し、芥川龍之介に心酔し、作家になることを夢見つつ、同人雑誌を発行し、そこに次々と作品を発表し始めた時期とも重なり合っている。

この時期の作品は、例えば『太宰治全集』(筑摩書房)の第12巻に「初期作品」という括りで収められているから、君も興味があれば、そのページを捲(めく)って欲しいが、今回は彼が後年、数えの34歳の時に執筆した、第二長編(中編?)小説の『正義と微笑』を取り上げておこう。この作品を太宰治が書いたのは、ちょうど今から70年前(1942年)のことであり、いわゆる「太平洋戦争」――その当時の、私たちの国の呼称では「大東亜戦争」が勃発した直後から筆を起こし、主人公の芹川進(せりかは・すすむ)が日記の中で、数えの16歳から18歳に至るまで、多感な中学生であった頃を告白する形で、物語は展開する。もっとも、結果的に主人公は高校受験に失敗し、私立大学への進学も取り止め、何と「映画俳優」への道を歩き出すのであるが。

その点において、この作品は太宰治の書いた、実に分かりやすい「教養小説」(ビルドゥングス・ロマーン)であるけれども、すでに君にも伝えた通り、このような形で「教養」という語が使われ、私たちの間に広まるのは、どうやら今から百年前の、明治の末年から大正の初年であるらしく、そうであるとすれば、このような「教養」の歴史と重ね合せる形で、太宰治の人生を辿り直すことは可能であるし、それどころか、まさしく彼は典型的な、このような「教養」の歴史の体現者であったことにもなるであろう。例えば、次に掲げるような『正義と微笑』の一節を、いわゆる旧仮名遣いも含めて、君は時代がかった、古臭い「お説教」のように感じるであろうか、それとも、そこに現在の私たち――君や僕にも通じる、何かを汲み取ってくれるであろうか?

勉強といふものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまへば、もう何の役にも立たないものだと思つてゐる人もあるやうだが、大間違ひだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないやうな勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるといふことが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるといふことなんだ。カルチユアといふのは、公式や単語をたくさん暗記してゐる事でなくて、心を広く持つといふ事なんだ。つまり、愛するといふ事を知る事だ。学生時代に不勉強だつた人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまつてもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまつても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残つてゐるものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。さうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせつてはいかん。ゆつたりと、真にカルチベートされた人間になれ!これだけだ、俺の言ひたいのは。

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