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北村透谷論(拾遺)――「教養」の来た道(154) 天野雅郎

北村透谷(きたむら・とうこく)を最初に読んだのは、いつの時分のことであったのか......よく覚(おぼ=憶)えていないけれども、それが大学生の頃の経験であったのは、まず間違いがない。――と言ったのは、ちょうど僕が大学に入学をした年から、卒業をする年に至るまで、北川透(きたがわ・とおる)の「北村透谷 ■ 試論」が全三冊で、Ⅰ(『〈幻境〉への旅』1974年、冬樹社)からⅡ(『内部生命の砦』1976年、同上)へと、さらにはⅢ(『〈蝶〉の行方』1977年、同上)へと、刊行され続けていたことを、僕は想い起こすことが出来るからである。また、この最後の年の暮れには、映画の『―北村透谷―わが冬の歌』(ATG→日本アート・シアター・ギルド)も公開されており、こちらは山口清一郎(やまぐち・せいいちろう)が監督で、歌手の「みなみらんぼう」が透谷役を演じていた。

とは言っても、このような形で北村透谷に、評論や映画を通じて接近を試みることと、彼の文章それ自体を繙(ひもと=紐解)き、結果的に「その短い生涯のなかに、真の日本の文化とは何か、思想とは何か、文学とは何か、人間とは何か、を執拗に、情熱的に問いかけた人」(平岡敏夫『続北村透谷研究』1971年、有精堂)である彼を、理解することとは違っていて、この当時の僕が、どこまで北村透谷の読者たりえていたのかは、疑わしい限りである。が、このようにして1970年代には、いまだ1960年代後半の、ある種の「北村透谷ブーム」が尾を引いており、今でも我が家(「天野図書館」)の本棚には、その時分に手に入れた、平岡敏夫(ひらおか・としお)の『北村透谷研究』(1967年、有精堂)や、桶谷秀昭(おけたに・ひであき)の『近代の奈落』(1968年、国文社)が、並んでいる。

ところで、このような「北村透谷ブーム」の火付け役になったのが、これまた先刻の山口清一郎と同じく、清一郎つながりの、勝本清一郎(かつもと・せいいちろう)の編纂した『透谷全集』(岩波書店)であったのは、ほぼ確実であり、文字どおりに彼が「その半生を傾けて編んだ『透谷全集』全三巻」(平岡敏夫『続北村透谷研究』)が完結をするのは昭和三十年(1955年)に当たっている。そして、その後には『座談会・明治文学史』(1961年、岩波書店)や、さらに『座談会・大正文学史』(1965年、同上)を遺して、この文芸評論家自身は昭和四十二年(1967年)に、逝去をしてしまうけれども、その頃からが実際には、この「北村透谷ブーム」の出発点でもあった訳である。なお、この『透谷全集』を大学生であった僕は、購入することが叶わず、その状態は今に至っても変わっていない。

と言うことは、その当時、貧乏学生であった僕にも、どうにか購入することが出来たのは、岩波文庫の『北村透谷選集』(1970年)であって、この選集(selection)の校訂を担当していたのも、ふたたび勝本清一郎である。が、その発行年からも窺えるように、この作業が終了しないままに、校訂者自身は世を去った次第。ともかく、そのような『北村透谷選集』を通じて、もっぱら僕は北村透谷に、親しむことだけは許されたのであるが、正直に言うと、大学生であった僕には彼の日本語が、いたって難解(......^^;)であり、まるで「古文」のように感じられ、これを理解するには、さらに十年に近い歳月が必要であった。――と、このようにして想い起こすと、どうにか僕が北村透谷を読めるようになったのは、せいぜい三十歳になってからのことではなかったのか知らん、と記憶している。

その意味において、どうやら北村透谷は僕にとって、おそらく若い日に読まなくてはならない、作家の一人でありながら、結果的に僕自身の、日本語の「読み書き力」(リテラシー)の不足によって、その作品を読むのが遅くなり、その理解にも、かなり時間を要することになり、ひょっとすると今でも、ほとんど分からず仕舞いに終わっている、そのような作家であったことにもなるであろう。ただし、それは単に僕個人の、日本語力の問題ではなく、むしろ日本人の大多数が、きっと日本人として持っていなくてはならない、言語力(すなわち、言葉を読み、書き、聴き、話す力)を喪失し、きわめて中途半端な日本語力や、それに輪を掛けて、お粗末(そまつ)きわまりない外国語力(端的に言えば、英語力)しか、身に付けることが出来なくなった、この時代全体の、問題ではなかろうか。

裏を返せば、そのような北村透谷を今回、このブログにおいて取り上げることになったのは、きっと僕にとって、ある種の僥倖(ギョウコウ=偶然の幸運)以外の、何ものでもなかったに違いない。しかも、それが山岳文学という文脈(context)で、よもや北村透谷の名前を挙げることになろうとは、僕自身には予想も付かなかった......と言いたいのは山々(やまやま)であるが、実は以前から、このような事態の到来を、ひそかに僕は願っていたのでもあり、その証拠に僕は、かつて無鉄砲にも「経済学」の話を、あれこれ君に聴いて貰(もら)い始めた折、このブログ(第122回:経済学は、お好きですか?)でも君に、すでに北村透谷のことを紹介済みであり、おまけに、そこには志賀重昻(しが・しげたか)の『日本風景論』さえ、登山という語と共に、あらかじめ登場済みであった。

と言うことは、そもそも僕は「経済学」の話を、君に伝える以前から、もう半年以上を遡り――今日の、この日の到来を待ち望んでいたことになる。と言い出すと、いかにも話は大仰(おおギョウ=大形)に過ぎるが、その当時、僕は偶々(たまたま)三田博雄(みた・ひろお)という「科学思想史」や「科学技術論」の専門家の書いた、何と『山の思想史』(1973年、岩波新書)という本を手に取って、なかなか面白い本だな、と感じていた次第。そして、この本の冒頭に置かれている、最初の一章(「なぜ山へ登る」)に、以下のようなゲーテの詩(「さすらい人の夜の歌」)が引かれ、そこからゲーテの、いわゆるデモーニッシュ(daemonisch=悪魔的)な生涯を辿り直すことや、人間の「科学技術」と「山登り」が同列の、人間の欲望として扱われていることに対して、関心を持ったのである。

さらに、この本の第二章には北村透谷が、第三章には志賀重昻が、それぞれ割り振られているのであるから、興味は尽きない。また、そこには「新しい時代がはじまり古い時代が終わる過渡期とは、その間に文化に対する価値の逆転が進む〔、〕いわゆる危機の時代のことで、そのとき何らかの形で「自然への復帰」がなしとげられる。「自然」は、文化の対極としては、とりわけ「山」であった。近代が山登りとともにはじまる〔、〕といわれるのも、この意味にほかならない」という叙述があって、その後に続くのが、ペトラルカのモン・ヴァントゥ(「風の山」)への初登頂であり、そのような「最後の僧職的中世人であるとともに、最初の古代復帰(ルネサンス)の詩人でもあった」ペトラルカが、そのまま私たちの国の、北村透谷にスライドしていくのは、きわめて示唆に富んでいる。

 

山々の頂きに

憩〔いこ〕いあり、

木々の梢に

風の そよぎの

けはいもなく

森に小鳥も黙(もだ)しぬ。

待てよ しばし、やがて

汝〔な〕れも憩わん。

 

ヨーロッパの近代は科学技術の成立と、山登りでもってはじまる――レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯が示しているように。〔改行〕そしてジェームズ・ワットの蒸気機関の完成、カートライトの力織機の発明と、アルプスの最高峰モン・ブラン(四八〇七m)の初登頂(一七八六年八月七日)とは、同時であった。それは〔、〕いずれも――科学技術も、山登りも、人間のデモーニッシュな活動の両極を代表しているからである。

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