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志賀重昻論(第二話)――「教養」の来た道(161) 天野雅郎

ひとつの国(訓読→くに、音読→コク)が誕生し、そこに国家や国土や国民が形成される――という事態を、君や僕は直接、体験したことがない。でも、そのような事態は今でも、世界の至る所で起きているし、これからも起き続けることが予想される事態である。また、現に君や僕の暮らしている、この「日本」という国にしても、それが昭和二十一年(1946年)に公布された「日本国憲法」によって、その名の通りに「日本国」と呼ばれる、新しい国(!)として誕生したのは紛れのない事実である。なにしろ、それ以前には「大日本帝国」と称される、現在の「日本国」とは違う、別の国が、明治二十二年(1889年)以降、この「日本列島」(?)には存在していたのであり、それを押さえておかないと、きっと君や僕は「日本」の、この百数十年来の歴史が、理解できなくなるに違いない。

けれども、そのような「日本」の歴史(history)を、君や僕は目下、困ったことにヨーロッパの近代(modern times)が産み出した、まさしく近代的(modern)な物語(story)に即して、学んだり、習ったり......しているのであって、そのこと自体を、不審に思うこともなければ、そこから遡って、さらに前近代的(premodern)な時代をも、これを中世や古代として位置づけ、そこに何の違和感も催さないのが実情である。おまけに、そのような時代に対して、いつも君や僕が近代的な方法や様式や、いわゆるモード(mode)を宛がって、うまく辻褄(つじつま)合わせをしようとしたり、そこに近代的な手本や模型や、いわゆるモデル(model)を、こじつけようとしたりしていても、その「モード」も「モデル」も、そろって「モダン」の同義語であることには、気づこうともしないのである。

と、このような前置きで、今回も再度、僕は君に志賀重昻(しが・しげたか)の話を聴いて貰(もら)いたい、と思っているけれども、そもそも彼が生まれたのは江戸時代の末年の、文久三年(1863年)であったから、それは君の誕生日から遡ると、130年も昔の話になるであろうし、僕の誕生日から遡っても、90年以上も昔の話にならざるをえない訳である。――が、そのような時の流れを、単に長い(-_-;)と言って済ませるだけでは、君や僕は何時まで経っても、江戸時代のことも、明治時代のことも、理解できないであろうし、例えば彼(志賀重昻)のように、わずか数年後には江戸時代が終わり、いわゆる「明治維新」の始まる頃に生まれ合わせた人物が、どのような人生を送り、どのような思想を育み、どのような行動を取るに至ったのかを、追体験することは困難ではなかろうか。

ちなみに、この前年(文久二年→1862年)や前々年(万延二年・文久元年→1861年)に生まれたのが、前回も名前を挙げておいた、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)や内村鑑三(うちむら・かんぞう)や、あるいは森鷗外(もり・おうがい)や落合直文(おちあい・なおぶみ)であったけれども、彼らが一様に、この「明治維新」の過渡期(transition=超越移行)に当たって、そのまま明治新政府の側に与(くみ)した藩の出身者ではなかったことを、さしあたり君や僕は、覚えておく必要がある。すなわち、志賀重昻は三河(みかわ→愛知県)の岡崎藩の生まれであり、そこは言うまでもなく、徳川家康(とくがわ・いえやす)の出生地でもあったので、この藩が江戸時代を通じて徳川氏に臣従した、譜代(フダイ)大名の藩主によって、その地位を占められてきたのは当然の事態であった。

また、新渡戸稲造は陸奥(むつ→岩手県)の盛岡藩に、内村鑑三は上野(こうずけ→群馬県)の高崎藩に、それぞれ生を享(う)けている。したがって、彼らが志賀重昻と同様、江戸時代の終わりと明治時代の始まりを、いずれも勝者(すなわち、明治新政府)の側ではなく、敗者(すなわち、旧幕府勢力)の側で迎えざるをえなかった点は、共通である。その意味において、例えば逆に、越前(えちぜん→福井県)の福井藩の出身であり、新渡戸稲造と同じ年(文久二年)に、横浜で産声(うぶごえ=初声)を上げた、岡倉天心(おかくら・てんしん)や、あるいは翌年、志賀重昻と同じ年に、肥後(ひご→熊本県)の熊本藩で誕生した、徳富蘇峰(とくとみ・そほう)が後年、辿ることになる人生と、その行程(キャリア)の違いには、そもそも、このような出生地の違いに根差す所が大きい。

もっとも、すでに江戸時代(いわゆる、中世=近世)は終わり、明治時代(いわゆる、近代=現代)が始まっているからには、このような「出生地」(birthplace)の違いによって、人間の生涯や、その行路に影響が生じ――下手をすると、それが大幅に制約されたり、左右されたりしてしまうこと自体、それは「封建制度」(feudalism=領地主義)の名残(なごり=余波)以外の、何物でもないけれども、そのような残余が明治時代は疎(おろ=愚)か、大正になっても昭和になっても、ひいては平成になっても、延々と続いているのが......困ったことに、君や僕の生きている、この「日本」という国の現状のようなのである。とは言っても、よく考えてみれば、その時点から高々、一世紀半の時間しか経っていない、まったく同じ「モダン」という時代に、君や僕は生きているのでもあるが。

さて、このようにして振り返ると、一人の人間が偶々(たまたま)ある時代に、ある場所で生まれて、そこから自分の人生を、どのような行路で歩んでいくのかは、それほど君や僕の自由な、決断と選択に任されている訳ではないことも、おのずと明らかであったに違いない。とは言っても、それは例えば夏目漱石(なつめ・そうせき)が、あの『坊つちやん』(明治三十九年→1906年)の中で滑稽に、しかし、実に辛辣(シンラツ)に表現していたように、一方で「赤シヤツ」のような勝者の側に立つ者と、一方で敗者の側に立つ者――要するに、主人公の「おれ」や「山嵐」や「野だいこ」や、あるいは「うらなり」や「マドンナ」や「清」(きよ)でさえ、どのようにして彼ら(彼女ら)が、勝者と敗者であることを自覚し、それを各自の自活に結び付けていったのかは、千差万別である。

その意味において、一方で「大日本帝国」が誕生し、それが「明治維新」という「国内戦争」に代わって、今度は「日清戦争」という「対外戦争」に突き進んでいく年と、一方で志賀重昻の『日本風景論』が出版される年が、まったく同じ、明治二十七年(1894年)であったのは、決して偶然ではなかったはずである。が、そこには彼の、少年期と青年期が差し挟まっているし、そこから彼の、壮年期も始まっていくのであって、それが「欧化と国粋」という「論壇の主題」(鹿野政直『近代日本思想案内』1999年、岩波文庫別冊)の中で、どのような立場を当時、彼(志賀重昻)に取らせるのかは、ほかならぬ彼の、決断と選択の結果であったことも、君や僕は肝(きも)に銘じておかなくてはならない。......なにしろ、いつも「人間は自由の刑に処せられている」(サルトル)のであるから。

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