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志賀重昻論(第三話)――「教養」の来た道(162) 天野雅郎

今回は最初に、桑原武夫(くわばら・たけお)が昭和三十七年(1962年)に編集した、その名の通りの『日本の名著』(中公新書)という本を、僕は君に紹介することから話を始めたい。とは言っても、この本は近年(平成二十四年→2012年)になってから、ちょうど半世紀を隔てて改版(revision=再見)され、実は今も書店の本棚に、君が新本として購入することの叶う状態で置かれている、いたって寿命の長い本であり、その点、志賀重昻(しが・しけたか)の『日本風景論』(明治二十七年→1894年)や、あるいは福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち)の『学問のすゝめ』(明治五年→1872年)と並んで、ベスト・セラーの域に達しつつある本でもあって、興味ぶかいことに、その「日本の名著」(全50冊)の第1冊目は、まさしく福澤諭吉の『学問のすゝめ』から、スタートが切られている。

そして、そこから順番に、丸山眞男(まるやま・まさお)の『日本政治思想研究』(昭和二十七年→1952年)へと至る、第7冊目に置かれているのが『日本風景論』であり、そこには冒頭、志賀重昻の経歴が示され、おそらく執筆分担者(松田道雄)の記したであろう、的確な略伝が載せられているけれども......困ったことに、この『日本風景論』の著者が「岡山の藩士の家に生まれ、幼くして父を失った」と書かれているから、これを岡崎に直した上で、引用すると次のようになる。――「一二歳で上京し攻玉舎に入る。のち東京大学予備門の試験にパスしたが、東京大学に進学せず、一八八〇年、かれの札幌農学校入学といれちがいに内村鑑三、新渡戸稲造らが卒業。いずれも東京大学から明治政府の官僚にすすむコースを否定して、未開の原野に将来の夢を託したパイオニアたちである」。

もっとも、そのような「パイオニア」(pioneer=歩兵)たちが純粋な意志で、みずから自発的(voluntary)に「将来の夢」を見て、いわゆるヴォランティア(volunteer=志願兵)となり、意気揚々と「未開の原野」に足を踏み入れた......と言う風な、いかにも呑気(のんき)な想像を、君や僕は明治二年(1869年)以降、ようやく「蝦夷地」から「北海道」へと名を改めたばかりの、この「アイヌモシリ」(ainu mosir=人の住む地)に対して、宛がわない方が賢明であろう。要するに、この時の彼らは自由に、自分自身の決断と選択で、開拓者や先駆者となって「北海道」を目指したのではなく、むしろ失意や諦念や絶望の下に、致し方なく「未開の原野」に赴(おもむ=面向)かざるをえなかった、数多くの人の群れの中の一員でもあったことを、君や僕は、忘れてはならないはずである。

ちなみに、そのような人の群れのことを、さしあたり君や僕は映画の、行定勲(ゆきさだ・いさお)が監督した『北の零年(ぜろねん)』(2005年)や、あるいは出目昌伸(でめ・まさのぶ)が監督した『バルトの楽園(がくえん)』(2006年)を通じて、振り返ることが出来る。ただし、前者は当時、徳島藩の淡路(あわじ→兵庫県)から北海道の静内(しずない)へと、後者は一方、会津藩から陸奥(むつ→青森県)の斗南(となみ)藩へと、それぞれ明治新政府の意向や命令で、移住せざるをえなかった人々と、その子孫――例えば、あの「板東俘虜収容所」の所長であった、松江豊寿(まつえ・とよひさ)の辿る苦難の生涯が背景にあり、どちらの映画も同じプロデューサー(岡田裕介)である点や、いずれも今の、徳島県に纏(まつ)わる出来事である点を除けば、別々の物語である。

さて、そのような事態を踏まえつつ、ふたたび話を志賀重昻に戻すと、彼は幼少の折、ちょうど明治維新の年(明治元年→1868年)に、わずか5歳で父親を亡くし、母方で育てられた後、単身で東京に向かうのは明治七年(1874年)のことである。そして、それから現在の、君や僕の年齢に即して言えば、小学生(11歳)から中学生(15歳)の間を「攻玉(こうぎょく)舎」(=攻玉社)という、何とも勇ましい、厳めしい名の塾に通い、英語や数学や、航海術や測量術を学ぶことになる。なお、この「攻玉舎」という塾は、もともと海軍操練所(→海軍兵学校)に併設されていた点からも明らかなように、やがて当時の「大日本帝国海軍」(Imperial Japanese Navy)との繋がりを強め、そのための軍人養成機関として、明治から大正へと、ひいては昭和へと、位置づけられていくことになる。

と言い出すと、きっと君は志賀重昻の生涯が、この段階で、いわゆる思春期に際して、すでに兆(きざ=気差)し始めているのを、理解してくれているに違いない。なぜなら、やがて「農学校を卒業後、八六年、海軍練習艦「筑波」に便乗して南洋諸島をまわり、翌年その見聞記『南洋時事』を出版。この憂国の文章によって二三歳のかれの名は〔、〕たちまちひろまった」と、前掲の彼の略伝は続いているからである。言い換えれば、この時点の『南洋時事』(明治二十年→1887年)から、彼の代表作である『日本風景論』へと至る道程(音読→ドウテイ、訓読→みちのり)は、わずかに7年であり、その間には「八八年、三宅雪嶺〔みやけ・せつれい〕らと政教社をつくり、政府の企図する「条約改正」に反対し、〔雑誌〕『日本人』を創刊」(同上)するという事態が、差し挟まってくる。

と言うことは、彼の『日本風景論』も三十路を過ぎたばかりの、若書(わかがき)の著作であって、それが残念ながら、この著作に多くの粉飾(フンショク)を持ち込むことになる、主要な要因の一つであったのではなかろうか。この点については、次回以降に話を譲らざるをえないが、このようにして若い、札幌農学校を卒業した「農学士」は、結果的に「農学校を出たのに農学者とならず、地理学者となった」。......と、このように書き記しているのは、菅孝行(かん・たかゆき)の『日本の思想家 [近代篇] 』(1981年、大和書房)であるけれども、そもそも君は「地理学」(geography=地球描写)という学問が、その名の通りに広範な、まさしく地球全体を研究対象とする学問であり、昨今、いたって不人気(^^;)な受験科目ではないことを、しっかり弁(わきま)えておく必要がある。

その意味において、地理学とは端的に、この学問の成立事情に即して言えば、その根底には近代人に特有の、近代的な世界観や人間観や、自然観や文化観が横たわっているのであって、この学問が目下、自然地理学や人文地理学や、さらには地誌学や地図学へと細分化を遂げてはいても、そこには元来、世界と人間の双方を、自然と文化の両面で、一網打尽にしようとする欲望が蠢(うご→うごうご)めいていることは、疑いがない。したがって、そもそも『日本風景論』を「風景」という、何とも情緒的な、趣(おもむき=面向)のある捉え方をして、そこから政治的な権力欲や、あるいは経済的な支配欲を、払拭(フッショク)してしまうのは間違っているし、そのような払拭が一線を越えると、むしろ私たちの国の陥った、帝国主義の欲望までもが姿を現(あらわ=露・顕)すことになる。

 

志賀は農学校を出たのに農学者とならず、地理学者となった。地理学者として志賀が一躍有名になったのは、一八八七年、志賀が二十四歳のときに書いた『南洋時事』によってであった。この書物は、該博な地理学の知識と、地理学者としての実践(フィールドワーク)無しには書けない〔、〕という意味で地理(学)の書ではあったが、この著書が与えた影響は、地理学の書という範囲を〔、〕はるかに越えていた。『南洋時事』は、大衆的な次元では〔、〕ほとんどはじめて、日本人の目をオセアニア、南アジアに〔、〕ふりむけさせたのである。〔改行〕その翌年、志賀は政教社の発足に関与し、雑誌『日本人』で国粋保存を説き、一八九四年には『日本風景論』を世に問うて、日本の自然美を説くとともに、日本の国土に地理学的解明を与えた。

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