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志賀重昻論(第四話)――「教養」の来た道(163) 天野雅郎

19世紀という「世紀」(century=百人部隊)のことを、知れば知るほど――とは言っても、その知識が僕には、なかなか身に付かず(......^^;)困っているのであるが、この百年の間に世界中で起きたことが、突き詰めれば、君や僕の生活や人生に絶大な、深刻な影響を及ぼしている、と僕には感じられるのであるが、さて君は、いかがであろう。例えば、その最たるものが現在、君や僕が「科学」という名で呼んでいるものであって、この日本語が「サイエンス」(science=知識)という原語の意味を離れて、きわめて日本的な翻訳語として誕生し、そこに個別科学や特殊科学や、要するに、その名の通りの「科学」という要素を、最初から取り込んでいたのは印象的であるし、裏を返せば、その当時の日本人の言語能力や、理解能力や表現能力には目を見張るものがある、と評さざるをえない。

その意味において、例えば志賀重昻(しが・しげたか)の少年時代から青年時代に当たって、彼が通っていた「攻玉(こうぎょく)舎」(→攻玉社)は、やがて「大日本帝国海軍」の教育機関となり、海軍兵学校の予備教育を施す場(いわゆる、予備門)へと位置づけられていくことになるけれども、元来、そのような軍人養成教育の場こそが、実は最も科学的な、科学を必要とし、科学に相応しい場であったことを、君や僕は弁(わきま)えておく必要がある。もちろん、それは海軍だけではなく、陸軍も同様であって、このような場には当時、兵科(へいか)という日本語が宛がわれていたのであるが、幸か不幸か、その日本語は今、あのナポレオン・ボナパルトの「不可能」の文字(→我輩の辞書に「不可能」という文字はない!)のように、多くの日本人の辞書からは忘れ去られている。

ところが、いくら本人は存在しない――と言い張っても、やはり「不可能」な事態は厳として、存在しているのであって、そのことを敗者となった、元皇帝は認めざるをえなかったであろうし、それでも強いて、このような虚勢を張るとすれば、彼は頑固な観念論者(idealist)であったか、それとも辞書を引かない人間であったか......いずれにしても、ここで僕は『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引いて、君に「兵科」の語釈を伝えておくことにしたい。――「軍隊で、戦闘に従事する兵種をいう。旧陸軍では、憲兵・歩兵・砲兵・騎兵・工兵・航空兵・輜重(しちょう)兵の七兵科があり、ほかに技術・経理・衛生・軍医・軍楽などの各部を置いた。旧海軍の兵科には陸軍のような区分はなく、兵科のほかは機関科・航空科・軍医科・看護科・主計科・造船科・水路科などがあった」。

このような「兵科」に準ずる塾を出て、志賀重昻は明治十一年(1878年)以降、その前年に創設されたばかりの「東京大学予備門」に進み、そのままのコースを辿っていれば、彼は当時の日本の唯一の大学である、東京大学に入る予定であったはずである。が、どのような理由に......よるのであろうか、この大学進学を彼は取り止め、あの「少年よ、大志を抱け!」(Boys, be ambitious!)で有名な、ウィリアム・スミス・クラークが教頭をしていた、札幌農学校へとコースを変更することになる。ただし、クラーク自身は一年契約の教頭でもあったから、すでにアメリカへと帰国を果たしていたし、この学校で志賀重昻が結果的に、内村鑑三(うちむら・かんぞう)や新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)と同じ窓の下で学んだのも、ごく短期間であって、まさしく入れ違い、と言うのが相応しい。

けれども、このようにして志賀重昻が明治十三年(1880年)から明治十七年(1884年)までの間、札幌農学校――と言うよりも、北海道で過ごしたことは彼の生涯において、はなはだ重要な意義を持っていたに違いなく、その意義の最たるものが、おそらく彼を「当時もっともユニークな国際的空間意識をもった人物」に育て上げたことであり、それが3年後には『南洋時事』として、さらに7年後には『日本風景論』として、大きく実を結ぶことになる点は、繰り返すまでもない。また、そこから彼が、これらの著作を通じて「日本人の国際的な関係意識の持ちようを大きく転換させ、また風景、風土と民族性の内的連なりを深く認識させ」ることになったのは、ふたたび前回と同様、菅孝行(かん・たかゆき)の『日本の思想家 [近代篇] 』(1981年、大和書房)が、指摘している点である。

もっとも、そのような「国際的」な「空間意識」や「関係意識」は、ひとつ道を違(たが)えると、その名の通りに「国際的」(international)な、お互いの国家や国土や国民を間(inter)に差し挟んだ、いわゆる「ネーション」(nation)の固有性や、その独自性を主張し、論(あげつら)い、それが切り結ぶ場ともなりうるのであり、そのこと自体は別段、明治時代に特有の事態ではなく、大正になっても、昭和になっても、平成になっても、そこに「ネーション」という組織が存在している限り、いつも君や僕の目の前に、露(あらわ=顕・現)な姿を呈することになるのである。そして、それを志賀重昻の『日本風景論』は、そのまま「ナショナリティ」(nationality)を「国粋」という語に置き換えて、当時としては斬新な、地理学という科学(サイエンス)の眼差しで表現した次第。

 

『日本風景論』には、ナショナリティと風土との密接不可分の関係が、具体的な事例を挙げて説かれており、自然の景観、風土、国土、国民、文化は不可分一体のものである〔、〕という新しい観点が〔、〕そこには示されている。その不可分一体のものの〔、〕ひろがりを志賀は国粋(ナショナリティ)と呼んだのであった。このような視点からナショナリズムの思想が展開されたのは始めてであったし、また、地理学が〔、〕このような国粋(ナショナリティ)のイメージを定着させる媒体としての役割を果したのも始めてのことであったろう。ここに志賀重昻のナショナリズムの独自性があり、また彼の地理学の独自性もあった。(同上)

 

さて、このようにして今回も前回と同様、僕は君に「地理学」(geography)の話を、しなくてはならないのであるが、そもそも「地理学」が現在のように、それ自体が「科学」として成り立つためには19世紀を俟(ま)たねばならず、この語が古く、ギリシア語(geographia)にまで遡り、その兄弟語に「幾何学」(geometry←geometria=地球測定)が存在していることを顧みれば、ずいぶん長い間、この「地理学」という学問は「科学」とは違う、内容や方法を伴っていた訳である。事実、19世紀以前に「地理学」と言えば、そこには探険や冒険という要素が、あたりまえに見込まれていたはずであるし、それを17世紀まで遡れば、ほとんど「天文学」(astronomy)と見分けの付かない学問であったことも、あのヨハネス・フェルメールの名画(『地理学者』)から窺い知ることが出来る。

言い換えれば、もともと「地理学」は「天文学」の対語(タイゴ→ツイゴ)......と言おうか、双子(ふたご)のような関係にある語であり、そのまま日本語に置き換えれば、前者は「地文学」(チモンガク)と、後者は「天理学」(テンリガク)と、称しても構わない学問であったし、実際、その「地文学」という語を『日本風景論』の中で使っているのが、志賀重昻であった。したがって、もっぱら君や僕が昨今の、そのまま「地理学」という学問の視点で、ひいては「科学」という視点で、志賀重昻の生涯や業績を一面的に理解し、その功罪を含めて、それらを一方的に裁断するのは間違いなのではなかろうか、という思いが、僕の頭からは抜け切らないでいる。――と言った辺りで、どうやら今年の、このブログは時間切れのようであるから、この続きは年を跨(また)いで、また来年に。

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