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志賀重昻論(第五話)――「教養」の来た道(164) 天野雅郎

謹賀新年。今年の年頭は再度、志賀重昻(しが・しげたか)の話から、このブログはスタートを切ることになるのであるが、君や僕が目下、彼の著作を読み、とりわけ『日本風景論』を俎上(ソジョウ)に載せ、その俎(まないた=真魚板)の上で、この『日本風景論』を論(あげつら)う必要がある理由は、つきつめれば、君や僕の暮らしている、この日本という国の「近代化」に関わる問題が、その根底には横たわっているからであり、それは前々回、このブログ(第162回:志賀重昻論・第三話)においても君に紹介しておいた、桑原武夫(くわばら・たけお)編『日本の名著』(1962年、中公新書)の表現を借りると、結果的に「アジア諸国のなかで、欧米列強の植民地にならず独立国として〔、〕みずからの近代化に成功したのは日本しかない」という点に、話は向かわざるをえない。

けれども、この『日本風景論』の章の執筆分担者であり、医師や育児評論家としても有名な、松田道雄(まつだ・みちお)が述べているように、そもそも「この近代化が〔、〕どうしてうまくいったのか。その原因は、まだ完全には〔、〕とかれていない」のが実情であるとしても、はたして日本の「近代化」を素朴に、諸手(もろて)を挙げて「うまくいった」と、言い切ることは可能なのか......どうかは別問題であろうし、また、その「成功した」理由を一概に、この「近代化にむかっての国民的統一が他のアジア諸国にみられないほど組織されたということが、その一つの原因であることは〔、〕まちがいない」と断定することは、はたして妥当なのか知らん、と僕のように「近代化」に対して、むしろ懐疑論者(skeptic=「考える人」!)の側に立つ人間には、感じられるのであるが。

ともかく、その際の「日本の国民的統一は、明治二〇年代におこなわれた」のは事実であるし、それが「大日本帝国」の誕生(明治二十二年→1889年)によって不動のものとなったことも、その「国民的統一の基本になった思想を代表するものが、志賀重昻(原文:志賀重昂)の『日本風景論』である」ことも、疑いがない。言い換えれば、この「近代化という至上命令を達成するためには、日本のなかに〔、〕ふかく根づいている封建的なものを〔、〕とりさらねばならない。しかしながら、列強の圧力をはねのけ、国の独立をまもって団結するためには、日本に固有の美点をあげ、その伝統をまもる義務感を国民のなかに〔、〕ひろげねばならない。日本を過去から切りはなすために、過去に結びつかねばならぬ〔、〕という矛盾に、この時代の日本の思想は当面した」(同上)のであった。

と言い出すと、それが決して百年以上も前の「日本の思想」の問題ではなく、それどころか、それは君や僕が現在、当たり前に過ごしている毎日の、生活の端々(はしばし)に顔を覗かせる問題であることに、君は気が付いてくれているに違いない。そして、それは下手(へた=端)をすると、君や僕の人生の隅々(すみずみ)にまで忍び込み、その浸透の程度さえ、よく分からなくなってしまう、いかにも厄介(やっかい→厄会? 家居?)な問題でも、ありえたのではなかろうか。――事実、君や僕が毎日、毎週、毎月、毎年、いつもテレビの中で眺めている、大正時代や明治時代や、江戸時代や戦国時代の登場人物たちは、それが歴史好きの「おじさん」や、いわゆる「歴女」の興味の範囲を超えて、ほとんど日常茶飯と評しても構わない、ごくごく普通の老若男女の嗜好対象となっている。

ちなみに、そのような嗜好対象の一つと呼ぶには、あまりにも習慣化や伝統化を、され過ぎてしまっているけれども、僕自身は今年も、いつものように郷里(島根県松江市)で新年を迎え、珍(めず=愛)らしく暖かい、麗(うららか→うらうら)に晴れ渡った空の下、二つばかりの初詣(はつもうで)の梯子(はしご......^^;)をしたのであるが、このようにして「正月、その年初めて神社や寺に参詣すること。はつまいり」をするのは、この語釈を掲げている『日本国語大辞典』(2006年、小学館)が、その用例に阿波野青畝(あわの・せいほ)の『萬両』(1931年→昭和六年)の一句(口開いて/矢大臣よし/初詣)を挙げている点からも窺えるように、それほど古い伝統や習慣では、さらさら無く、反対に新しい、言ってみれば、近代的な正月行事であり、正月風景であったことが分かる。

この点は、ほとんど「はつまいり」(初参)についても同様であって、こちらの用例に『日本国語大辞典』が挙げているのは、明治二十二年(1889年)の『朝野新聞』であったから、それは印象的にも、そのまま「大日本帝国」の成立した年の出来事であった訳である。なお、先刻の阿波野青畝は当時、昭和初期には「ホトトギスの四S」と称され、水原秋櫻子(みずはら・しゅうおうし)高野素十(たかの・すじゅう)山口誓子(やまぐち・せいし)と並んで、高濱虚子(たかはま・きょし)の「花鳥諷詠」の理念を受け継ぐ、四天王のごとき存在であったが、その高濱虚子にも以下、幾つかの「初詣」の句が遺されているので、おそらく「初詣」や「初参」が日本人の間に普及し、定着するに至ったのも、このような『ホトトギス』の刊行の時期と、ほぼ重なり合うものであったに違いない。

 

  石段に 一歩をかけぬ 初詣

  初詣 神慮は測り 難けれど

  神近き 大提灯や 初詣

  初詣 鳥居の影を 人出(い)づる

 

実際、例えば山本健吉(やまもと・けんきち)の『基本季語五〇〇選』(1986年、講談社)を繙(ひもと=紐解)くと、どうやら明治時代以前の「古歳時記に「初詣」の題目はない」らしく、むしろ「恵方詣」(えほうもうで)や「恵方参」(えほうまいり)の題目の方が、これに先行していたのが順序である。したがって、この「恵方詣」や「恵方参」の「習慣が崩れて、氏神〔うじがみ〕または、水商売の人なら豊川稲荷(いなり)とか、学業成就を願う人なら天満宮とか、その他〔、〕東京で言えば明治神宮、神田明神など、あるいは商売繁盛をねがって成田不動などと、思い思いに参る人が多くなった」のが、まさしく「初詣」の起源であり、それは私たちの国の「近代化」と、それによって惹き起こされた、私たち一人一人の「個別化」や、要するに「個人化」の、産物であった次第。

言い換えれば、そのような「個別化」や「個人化」は必然的に、君や僕の心の中に、文字どおりの内面や裏面を抉(えぐ)り出し、その内面や裏面が相互に、決して通じ合うことのない「非分割態」(individual)であることを意識させ、認識させることにも繋がっている。だから、君や僕が例えば、学業成就を願って天満宮に「初詣」をしようとも、商売繁盛を祈って稲荷社や、あるいは不動尊に「初参」をしようとも、それは君や僕の「思い思い」の行動であり、かつ「思い思い」の願いであり、祈りであって、そこに一見、いくら群衆(=群聚)が粛々(しゅくしゅく)と、列を成して進んではいても、それは翻れば、かつてデイヴィッド・リースマン(David Riesman)の指摘した、あの「孤独な群衆」(lonely crowd)の切実な、不安を抱え込んだ姿以外の、何物でもなかったのである。

 

  粛々と 群聚はすゝむ 初詣

  人々を 率(ゐ)てちらばりて 初詣

  人に恥ぢ 神には恥ぢず 初詣

  神慮いま 鳩をたゝしむ 初詣

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