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志賀重昻論(第六話)――「教養」の来た道(165) 天野雅郎

君や僕が目の前の「風景」(呉音→フウキョウ、漢音→ホウケイ)を、日本人の慣用音で「フウケイ」と呼んで、これを「うつくしい」と判断し、評価する場合、その判断や評価は何を基準にして、何を根拠にして、行なわれているのであろう。......このように問い出すと、それほど回答は容易ではなく、むしろ不分明な、不可解な要素が幾重にも、この「風景」という語や「うつくしい」という語の周囲には、渦を巻いているのが分かるし、それは例えば『日本国語大辞典』(2006年、小学館)が、この「うつくしい」という語の語釈に際して、まず冒頭に以下の、但し書きを差し挟まざるをえなかったことにも繋がり合っている。――「古くは、妻、子、孫、老母などの肉親に対する〔、〕いつくしみをこめた愛情についていったが、次第に意味が広がって、一般に慈愛の心についていう」。

そして、そこから『日本国語大辞典』は「うつくしい」の第一の語釈に「かわいい。いとしい。愛らしい」という説明を、さらに第二の語釈には、続けて「(幼少の者、小さい物などに対して、やや観賞的にいうことが多い)様子が、いかにも〔、〕かわいらしい。愛らしく美しい。可憐である」という説明を加えることが出来たのである。したがって、このようにして「うつくしい」という日本語に、そのまま漢字(すなわち、中国文字)を宛がうと、それは通常の「美」ではなく、それどころか、この漢字自体の成り立ち(美=羊+大)を踏まえれば、逆に「美」とは違う、反対の意味を、この「うつくしい」という日本語は抱え込み、育(はぐく=羽包)んでいったのであり、それは『日本国語大辞典』が「美」と並んで、この語の漢字表記に「愛」を挙げていることからも明らかである。

さて、このようにして振り返ると、そもそも君や僕が「風景」を「うつくしい」と判断し、評価する事態や、その行為は、はたして日本的な事態なのであろうか、それとも、それは実は、中国的な行為なのではなかろうか......という、俄(にわか)には信じ難い推測まで、頭を擡(もた=持上)げてくることになる。言い換えれば、このような「肉親に対する〔、〕いつくしみをこめた愛情」や、あるいは「幼少の者、小さい物などに対して、やや観賞的に」用いる「うつくしい」を使っている限り、君や僕は決して、お互いの目の前の「風景」を、そのまま「うつくしい」と判断し、評価することは出来ないし、そこから『日本国語大辞典』の掲げている、第三の語釈――「美麗である。きれいだ。みごとである。立派だ」への距離は、限りなく遠い、と認めざるをえないのでは、あるまいか。

なお、この第三の語釈に際して、ふたたび『日本国語大辞典』は「美一般を表わし、自然物などにもいう。室町期の「いつくし」に近い」という但し書きを差し挟んでおり、その用例にも室町時代の御伽草子(『木幡狐』)を間に置いて、その前後には平安時代の歴史物語(『大鏡』)と江戸時代の浮世草子(『好色一代女』)を挙げているから、単純に推測すれば、このような用法は日本の古代に誕生し、中世になって普及し、近世になって確立した用法であったのではなかろうか、と振り返ることが出来る。また、それは『日本国語大辞典』の第四の語釈(「(不足や欠点、残余や汚れ、心残りなどのないのにいう)ちゃんとしている。きちんとしている」)にも、第五の語釈(「人の行為や態度、また、文章、音色などが好ましい感じである」)にも、妥当しうる経緯であったに違いない。

事実、このような推測を裏付け、跡付ける形で、これまた『日本国語大辞典』は次の通り、この「うつくしい」という語の意味の変遷を、古代から現代へと、語誌として(1)と(2)の二つの段階に分け、うまく纏(まと)めているので、これを参考までに、君の一読にも供することにしたい。「(1)上代で〔、〕優位の立場から目下に抱く肉親的ないし肉体的な愛情であった原義は一貫して残り、平安時代でも身近に愛撫できるような人や物を対象とし、中世でも当初は女性や〔、〕美女にたとえられる花といった匂いやかな美に限定されており、目上への敬愛や〔、〕きらびやかで異国的な美をいう「うるはし」とは対照的であった。(2)やがて中世の末頃には、人間以外の自然美や人工美、きらびやかな美にも用いるようになり、明治には抽象的な美、そして美一般を表わすようになった」。

要するに、このようにして君や僕が「抽象的な美、そして美一般を表わす」ために、昨今のように「うつくしい」という日本語を発するようになったのは、この百数十年来の出来事であって、それを江戸時代にまで遡ることは不可能であるし、また、ようやく日本人が「人間以外の自然美や人工美、きらびやか美」に対して「うつくしい」という日本語を宛がうようになったのも、せいぜい五百年程度の歴史しか、そこには介在していない訳である。......と、ここで今回、はじめて志賀重昻(しが・しげたか)の登場を願うことになるのであるが、彼の『日本風景論』が「江山〔コウザン〕洵美〔ジュンビ〕なる〔、〕これ〔、〕わが郷〔さと〕」という、江戸時代の後期から明治時代の初期を生きた漢学者、大槻磐溪(おおつき・ばんけい)の引用で始まるのは、その意味において、印象深い。

なぜなら、このようにして「江山」(すなわち、川と山)を「洵美」の語で形容し、それを「うつくしい」と判断し、評価すること自体が、例えば「兎(うさぎ)追いし〔、〕かの山、小鮒(こぶな)釣りし〔、〕かの川~♪」(『日本唱歌集』1958年、岩波文庫)と、君や僕が子供の時分、あの『故郷』(ふるさと)の中で歌い継ぎ、信じ込んできたほどには、古い伝統や習慣では、なかったからであり、その点、この「文部省唱歌」が高野辰之(たかの・たつゆき)によって作詞され、岡野貞一(おかの・ていいち)によって作曲された、大正三年(1914年)は現在、君や僕が「第一次世界大戦」と称している、人類史上で初の「世界戦争」(World War)の勃発の年であると共に、ちょうど志賀重昻の『日本風景論』の出版から二十年後であったのを、ここで想い起こしておくべきであろう。

ちなみに、先刻の大槻磐溪に関しても、その名から察しが付くように、父親には蘭学者の大槻玄澤(おおつき・げんたく)がいて、息子には国語学者の大槻文彦(おおつき・ふみひこ)がいることを、想い起こしておくのも無駄ではあるまい。なお、彼らの出自(ルーツ)は遡ると、かつての陸奥(みちのく→むつ)に辿り着くのであって、ここでも日本の「近代化」が惹き起こした、あの「敗者」(旧幕府勢力)の側に立つ者と「勝者」(明治新政府)の側に立つ者の、複雑に絡まり合った人間関係や、縫い合わせ切れない感情の綻(ほころ)びを、振り返ることは可能である。ともかく、このようにして志賀重昻の『日本風景論』が、その冒頭から「近代化」とは異質の、むしろ非近代的で、反近代的な「漢文脈」からスタートを切っていることに対して、僕個人は目下、興味を惹かれている。

 

  兎追いし かの山

  小鮒釣りし かの川

  夢は 今も めぐりて

  忘れがたき 故郷

 

  如何(いか)にいます 父母(ちちはは)

  恙(つつが)なしや 友がき

  雨に 風に つけても

  思いいずる 故郷

 

  こころざしを はたして

  いつの日にか 帰らん

  山は あおき 故郷

  水は清き 故郷

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