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富☆士☆山(第二話)――「教養」の来た道(169) 天野雅郎

夏目漱石(なつめ・そうせき)が『三四郎』(明治四十一年→1908年)の冒頭で、主人公の小川三四郎(おがわ・さんしろう)を九州から東京への汽車の旅に向かわせるのは、前回、このブログで僕が君に、伝えておいた通りである。なお、その際に夏目漱石が、この主人公の年齢と身分を「二十三年〔、〕学生」としている点については、この主人公が漱石自身よりも二十歳ばかり年少であることを、子細に言えば、その誕生は明治十九年(1886年)に設定されていることを、君や僕は注目しておく必要がある。なぜなら、この年は私たちの国で唯一(!)の大学が、それまでの「東京大学」から「帝国大学」へと名を改める年であったからであり、これ以降、明治三十年(1897年)には「京都帝国大学」が、明治四十年(1907年)には「東北帝国大学」が、それぞれ設立されることになる。

言い換えれば、この主人公の生地(福岡)の近傍に、やがて「九州帝国大学」が創設されるのは、この小説の連載の二年後の、明治四十三年(1910年)のことであり、その含みもあって、結果的に『三四郎』の主人公が入学することになるのは「東京帝国大学」であった。ちなみに、どうして夏目漱石が「汽車」という......君や僕の生きている、この近代(=現代)という時代の「文明を代表するもの」に、この小説の主人公を乗り込ませているのかは、すでに一年余り前に、このブログ(第107回:ほほほほ......と笑う人)において、僕は君に『草枕』(明治三十九年→1906年)の一節を紹介しつつ、話を済ませておいたはずである。――以下、重複(呉音→ジュウフク、漢音→チョウフク)とはなるけれども、夏目漱石の文明批評を代表する箇所でもあるので、君の再読を請うことにしたい。

 

汽車の見える所を現実世界と云〔い〕う。汽車程〔ほど〕二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟(ごう)と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆〔、〕同程度の速力で、同一の停車場(ステーション)へ〔、〕とまって〔、〕そうして、同様に蒸滊(じょうき)の恩沢(おんたく)に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余〔よ〕は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。

 

この箇所は、ほぼ『草枕』の主人公の「余」の旅が、終わりに近づこうとする辺りに挿(さしはさ=差し挟)まれており、例の「ほほほほ......と笑う人」である那美(なみ)さんと、この画工(えかき=絵描)が「川舟」に乗り、この前近代的(premodern)な輸送手段から、逆に近代的(modern)な交通機関(transportation)であり、その名の通りに「現実世界」を象徴する「停車場」(station=定位置)へと彼らが辿り着き、そこで「停車場(ステーション)前の茶店に腰を下ろして、蓬餅(よもぎもち)を」食べながら――と言いたい所であるが、実は「眺めながら汽車論を考えた」折、主人公の頭の中に過(よぎ)った文明批評であった。なお、今回の引用は君の読み易さを配慮して、僕個人には幾分、残念ではあるけれども、いわゆる新漢字と新仮名遣いに改めておいたので、よろしく。

ところで、このようにして夏目漱石が、くりかえし「汽車」を作品中に登場させている理由は、これまた前掲の『草枕』の箇所に続けて、漱石自身が述べている通りであって、それは要するに、この近代的な交通機関ほど君や僕の「個性を軽蔑し」、それを「踏み付け様(よう)とする」ものは、ないからである。と言い出すと、ひょっとして君が「鉄道ファン」や「鉄道マニア」や、あるいは「鉄道オタク」と呼ばれている、ある種の鉄道文化(と言うよりも、鉄道文明)の礼賛者であるのなら、このような『草枕』の文明批評に疑問を感じ、場合によっては憤(いきどおり)を催し兼ねないのが、俗に言う鉄道愛好家の言い分ではあろうが、そのような君でも「鉄道」が、そもそも「普通鉄道」以外に「軍用鉄道」として、ひたすら利用され続けてきたのを、否定することは困難なはずである。

 

汽車程(ほど)個性を軽蔑したものはない。文明は〔、〕あらゆる限(かぎ)りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によって此〔この〕個性を踏み付け様とする。一人前(ひとりまえ)何坪〔つぼ〕何合〔ごう〕かの地面を与えて、此地面のうちでは寐〔ね〕るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時に此何坪何合の周囲に鉄柵(てっさく)を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇(おど)かすのが現今の文明である。

 

実際、夏目漱石が『三四郎』の冒頭の「汽車」の中でも、それどころか『草枕』の末尾の「川舟」においてすら、さりげなく「女」や「爺(じい)さん」といった名脇役を配しつつ、それぞれの主人公の耳に意識的に、はっきりと送り届けているのは「戦争談」であったし、この点についても、この『草枕』と同じ年に書かれた『坊つちやん』や『二百十日』を引き合いに出しながら、これまた以前、このブログ(第107回:ほほほほ......と笑う人)で僕は、これらの作品の背後に重苦しい、あの「日露戦争」(Russo-Japanese War→「露日戦争」?)が介在しており、その意味において、これらの作品は「日露戦争」の影響で誕生した「戦後文学」(postwar literature)でもあれば、見様によっては「戦争文学」(war literature)でもありえたことを、君に聴いて貰(もら)った訳である。

要するに、このようにして夏目漱石を筆頭にして、この時代に生を享(う)けた日本人は、その同年(慶応三年→1867年)に生まれ合わせた、南方熊楠(みなかた・くまぐす)であっても幸田露伴(こうだ・ろはん)であっても、あるいは、この頃には若くして、もはや点鬼簿(てんきぼ=過去帳)に名を書き記されることになっていた、正岡子規(まさおか・しき)であっても尾崎紅葉(おざき・こうよう)であっても、いずれも彼らが戦時下の、度重なる戦争の時代の文筆家であったことを、君や僕は忘れてはならない。また、それは前々回まで繰り返し、僕が君に報告を続けていた、志賀重昻(しが・しげたか)にも該当する点であるし、さらに彼と同年(文久三年→1863年)に生まれた、徳富蘇峰(とくとみ・そほう)や清澤滿之(きよざわ・まんし)にも、等しく当て嵌まる点である。

 

余〔よ〕は汽車の猛烈に、見界(みさかい)なく、凡〔すべ〕ての人を貨物同様に心得て走る様(さま)を見る度に、客車のうちに閉(と)じ籠(こ)められたる個人と、個人の個性に寸毫(すんごう)の注意をだに払わざる此〔この〕鉄車(てっしゃ)とを比較して、――あぶない、あぶない。気を付けねば〔、〕あぶないと思う。現代の文明は此あぶないで鼻を衝(つ)かれる位〔、〕充満している。おさき真闇(まっくら)に盲動(もうどう)する汽車は〔、〕あぶない標本の一つである。

 

その繋がりにおいて、もう一度、このブログ(第160回:志賀重昻論)で僕が、すでに君に紹介を済ませておいた、鹿野政直(かの・まさなお)の『近代日本思想案内』(1999年、岩波文庫別冊)のページを捲(めく)り直すと、このような戦争の時代に直面し、この当時の日本人が必然的に、みずから思想形成の試金石(touchstone)とせざるをえなかったのが、例の「欧化か国粋かの課題」であり、それは「日本の近代化が〔、〕いかにあるべきかについての」態度決定でもあった。そして、同書の表現を続けて引けば、この時「ここで提起された欧化か国粋かの課題は、こののち〔、〕どんな思想が創られる場合にも、一貫して〔日本人の〕意識の底に流れつづけることに」なるのであり、それどころか「むしろ逆に、それが思想の創造への〔、〕ばねになったともいえるほどで」あった。

事実、このようにして「若い日の夏目漱石・西田幾多郎〔にしだ・きたろう〕・鈴木大拙〔すずき・だいせつ〕・津田左右吉〔つだ・そうきち〕らは〔、〕いずれも、その課題に立ち向かい、どうすれば内的な創造性を打ちたてうるかを思索するなかで、思想を形成して」(同上)いった訳である。......と、ここまで読み継いできて、きっと君は今回も、いっこうに表題の「富☆士☆山」が姿を見せていないことに、気が付いたに違いないが、そのことを不審に思い、揚げ足を取るようでは、おそらく君は夏目漱石の、以下の『三四郎』の一節を、読んだことがなかったのではなかろうか。――とは言っても、そのような君にも「富士山」(フジサン)と「三四郎」(サンシロウ)の間に横たわっている、奇妙な数字の配列や語呂(ゴロ)合わせには、気が付いてくれているに違いないけれども。

 

すると髭〔ひげ〕の男は、〔改行〕「御互(おたがい)は憐(あわ)れだなあ」と云い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤(もっと)も建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応の所だが、――あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧〔ごらん〕なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外(ほか)に自慢するものは何もない。......」

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