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富☆士☆山(第三話)――「教養」の来た道(170) 天野雅郎

以前、丸谷才一(まるや・さいいち)の『闊歩する漱石』(2000年、講談社)を読んでいて、とても興味深く感じた点がある。――と書き出したら、それが「三四郎と東京と富士山」の一章と繋がり合っていることに、君は気が付いてくれている側であろうか。それとも、この丸谷才一という名前は、どうにか振仮名(ふりがな→傍訓→ルビ→紅玉!)が振ってあるから、読めるけれども、その後の「闊歩」が読めないままに、立往生(たち・オウジョウ)をしている側であろうか。おそらく、このブログの読者である君には、そのような事態は起こりえない事態であろうが、念のため、これは「カッポ」と音読して、その意味は「大またに歩くこと。ゆったりと歩くこと。堂々と歩くこと」である......と、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)には書き記されているから、ご確認を。

とは言っても、このように説明しているのは『日本国語大辞典』の、一番目の語釈であって、二番目には「いばって、思うままに〔、〕ふるまうこと。あたりを構わず、気ままに行動すること」という語釈が置かれ、こちらの方が昨今の、君や僕には馴染みのある説明であったのかも知れないね。でも、それぞれの語釈に対して『日本国語大辞典』は、一番目の用例に荻生徂徠(おぎゅう・そらい)の漢詩文集を挙げ、二番目の用例に北村透谷(きたむら・とうこく)の『厭世詩家と女性』(1892年)を挙げているから、単純に比較すれば、前者が18世紀の中盤の用例であり、後者が19世紀の末年(「世紀末」)の用例であったことになる。が、いずれも起源は中国の、どうやら魏(ギ)の文帝(ブンテイ→曹丕→ソウ・ヒ)の時代(在位:220年~226年)にまで、遡るようであるけれども。

ちなみに、この闊歩という中国語を「カッポ」と音読するのは、いわゆる漢音(闊→カツ、歩→ホ)であり、呉音であれば「カチブ」となる。また、この語を日本語で訓読すれば、闊の方は「ひろい」や「ゆるい」と、あるいは「とおい」や「はるか」となるし、歩の方は当然ながら、これは「あゆむ」や「あるく」となる。要するに、この語からは君や僕が字面の通りに、広い「門」を潜り抜け、ゆっくりと水が流れている、生き生きとした姿(「活」)を思い浮かべることが出来るし、それが必然的に悠然とした、夏目漱石(なつめ・そうせき)の姿を、髣髴(ほうふつ=彷彿)とさせるものでもあれば、それとは反対に、やがて彼が『門』(明治四十三年→1910年)の中で描き出した、人間の罪や悪や、それに怯(おび=脅)え、救いを求めようとする、主人公の姿が重なり合ってもくる。

その意味において、この「門」という文字からは多様な、複雑な人間の行動が導き出されることになる。例えば、この「門」の中に「才」や「开」を入れれば、それは「門」を「閉める」ことや「開ける」ことになるし、さらに「口」や「耳」を入れれば、それは「問う」ことや「聞く」ことを指し示すことになる。とは言っても、その「門」が実際に、どのような「門」であるのかを、君はイメージできるであろうか。できるのであれば、きっと君は「門」の中に、つづけて「文」を入れれば「閔」(訓読→あわれむ)となり、あるいは「心」を入れれば「悶」(訓読→もだえる)となることが、よく理解できるに違いないし、どうして「門」に「日」を入れれば「間」となり、逆に「音」を入れれば「闇」となるのかも、こちらは少々、成り立ちが面倒ではあるが、よく理解できるに違いない。

ところで、そのような『闊歩する漱石』の著者の丸谷才一は、大正十四年(1925年)に山形県の鶴岡市で生まれ、現在の新潟大学の前身である、旧制新潟高等学校を卒業し、やがて「戦後」を迎えてから、今度は東京大学に入学している。もっとも、この時点(昭和二十二年→1947年)で東京大学は、厳密に言えば、新制の東京大学になる以前の東京大学であり、それまでの「東京帝国大学」が「東京大学」に改称されるに至るのは、この年に施行された「学校教育法」以降のことである。そして、それが実際に新制大学としてスタートを切るのは二年後の、昭和二十四年(1949年)のことになる。なお、この段階で和歌山大学も、それまでの和歌山経済専門学校と、さらに和歌山師範学校と和歌山青年師範学校を統合し、そこから同じ、新制大学の一つとして発足しているのは言うまでもない。

このようにして振り返ると、そもそも君や僕が「大学」という名を冠せられた、教育機関でもあり、研究機関でもあり、要するに、いわゆる「天下の最高学府」(内田魯庵『社会百面相』1902年→『日本国語大辞典』)に籍を置いているにしても、それが結果的に、どのような時代の、どのような「大学」であるのかは、千差万別である。なにしろ、僕が前回、このブログで君に報告を済ませておいたように、夏目漱石(と言うよりも、夏目金之助)が入学するのは、明治二十三年(1890年)の「帝国大学」であり、そこから『三四郎』の主人公(小川三四郎)の「東京帝国大学」への入学(明治四十一年→1908年)までには、二十年近くが経っているし、これが今度は「東京大学」と改称され、そこに『闊歩する漱石』の著者の丸谷才一が入学するのは、さらに倍の、四十年近くが過ぎている。

もっとも、そこに絶えず日本の、まさしく「天下の最高学府」が置かれていたことは、疑いようのない事実であって、それは丁度、日本の「最高峰」(志賀重昻『日本風景論』1894年→『日本国語大辞典』)である「富士山」が、聳(そび)え立っているのと同じことである――と言ったら、それは余りに言い過ぎであろうか。その判断は、君に任せることにして、僕が今回、丸谷才一の『闊歩する漱石』を引き合いに出し、君に伝えておきたかったのは、どうやら漱石自身は『三四郎』の中で、いかにも見事な書き出しで、丸谷才一に言わせれば「何か奇蹟めいた感じ」さえ伴って、この小説の冒頭に「富士山」を登場させておきながら、それ以降、この小説において主人公の「三四郎が東京で富士を見る情景」を「故意かどうか、漱石は書き落してゐる」のではなかろうか、という点である。

言い換えれば、日本の文学は『万葉集』から始まって、その後の『竹取物語』でも『伊勢物語』でも、あるいは『古今和歌集』でも『源氏物語』でも、ひいては『新古今和歌集』でも『平家物語』でも、それこそ「富士山に〔、〕みちみちてゐる」。ところが、それにも拘らず、そのような「花やかな文学史のなかで、わたしが一つ不審に堪へないのは、どうして漱石は三四郎に東京から富士を見させなかつたのか〔、〕といふことなのである」と、丸谷才一は繰り返す。......これ以降は、今度は君が自分で、この本のページを捲(めく)る番であるけれども、それでは余りに無愛想で、不親切なのであれば、もともと僕自身は『三四郎』が、以下の『闊歩する漱石』の評価の通りに、いたって粋(いき)な、日本の「モダニズム」の粋(スイ)である点が好ましい、と言っておけば充分であろう。

 

東京を〔、〕あつかつて『三四郎』ほど粋な小説は〔、〕わたしたちの文学に珍しい。大学の構内も、学生の下宿も、団子坂も、上野の美術館も、この小説のなかではロンドンの匂ひがする。それはつまり本当の都市的なものが〔、〕ここにはあるといふことで、さういふ感じに近いものとしては〔、〕さしあたり吉田健一〔よしだ・けんいち〕の『東京の昔』を思ひ出す。不思議なことに漱石の〔、〕この長篇小説は前まへから玄人〔くろうと〕筋に評判が悪く、そのくせ素人〔しろうと〕には〔、〕ひどく好まれてゐると聞いたが、もしさうだとすれば〔、〕この粋な感じが素人の心を魅惑し、玄人には厭〔いや〕がられるのだらう。何となく〔、〕わかる気がする。それこそはモダニズム小説といふもので、さう言えば『三四郎』には油絵の画家たちの〔、〕いはゆる滞欧作を思はせるものがある。黒田清輝〔くろだ・せいき〕も東郷青児〔とうごう・せいじ〕も、ヨーロッパにゐたころは粋な絵を描いた。

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