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富☆士☆山(第六話)――「教養」の来た道(173) 天野雅郎

もう一度、今回も『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の「ふじさん」(富士山・不尽山・不二山)の語釈に立ち返って、僕は君に「ふじさん」の話を聴いて貰(もら)いたい、と思っているけれども、そもそも「ふじさん」が「静岡県と山梨県との境にそびえる円錐状成層火山」であり、その「山頂に直径約八〇〇メートルの火口をもち、火口壁の最高点は剣ヶ峰と呼ばれる」ことを、君や僕は現在、どこまで意識しているのであろう。......と言ったのは、これまで何度か言及してきたように、例えば奈良時代の『万葉集』においても、平安時代の『古今和歌集』や鎌倉時代の『新古今和歌集』においても、このような時代の「ふじさん」は、それが美しい、麗しい「ふじさん」であると同時に、むしろ激しい、噴煙を吹き上げては、噴火を繰り返す、恐ろしい「ふじさん」でもあったから。

事実、そのような噴煙と噴火の結果、このブログ(第132回:啓蒙とは何か?)でも、すでに僕が君に伝えたことのある、あの「宝永山・大宝山など七〇を数える寄生火山」は出現したのであり、そのような「寄生火山」に取り囲まれながら、結果的に「ふじさん」の「すそ野は雄大にひろがり、基底の直径は三五~四〇キロメートル」にまで及ぶ、猛々しい「成層火山」(「溶岩や火山砕屑(さいせつ)物が交互に堆積してできた火山」)の姿を呈している訳である。その意味において、何と「ふじさん」は驚くべきことながら、あの「文部省唱歌」の「一寸法師」のように、実は「ウテバ フシギヤ、イッスン ボウシ、ヒトウチ ゴトニ セガ ノビテ、イマハ リッパナ オオ オトコ」(岩波文庫版『日本唱歌集』)になった山であることが、長い目で見れば、理解できるのであった。

もちろん、そのためには「ふじさん」を、このようにして歴史的(すなわち、地史的)に、長い目で見る必要があり、そのためには「ふじさん」が、そもそも「火山」(「地下深所に存在するマグマや〔、〕その生成物が、地殻の割れ目や弱い部分に沿って地表に噴出し、溶岩などの噴出物が堆積してできた山」)であることを、君や僕が「一寸法師」の「打出(うちで)の小槌(こづち)」とは違う形で、要するに、地質学(geology)や地史学(historical geology)や、総じて「科学」(science=知識)の目で、見る必要とも重なり合っている。――論より証拠、先刻の「成層火山」という語にしても、あるいは「寄生火山」という語にしても、どうやら『日本国語大辞典』に従えば、その初出は大正三年(1914年)に、当時の東京地学協会の発行した『英和和英地学字彙』であったらしい。

と言う訳で、思い立って今度は、その『英和和英地学字彙』を調べてみると、確かに英語の stratovolcano と parasitic volcano の翻訳語として、この「成層火山」と「寄生火山」が載っている。と言うことは、これらの語が今から百年余り前に新しく作られた、近代的な日本語であったことも分かる。なお、この年は目下、君や僕が「第一次世界大戦」と呼んでいる、あの「世界戦争」(World War)の勃発した年として、しっかり君や僕の記憶にも留められている年であるが、言うまでもなく、その「世界戦争」の火蓋が切って落とされたのは、この「成層火山」や「寄生火山」の語源にもなっている、文字どおりの「火山」(volcano→ヴォルケーノ)と発音が似ている(......^^;)と、日本人の耳には聞こえざるをえない、バルカン(Balkan)半島であったのであるから、奇妙な一致ではある。

とは言っても、このような日本人の耳も案外、馬鹿(バ→中国語、か→日本語)にしたものでは、ないのであって、もともと後者の「バルカン」も遡ると、トルコ語の「山」を意味する語であり、それほど英語の「ヴォルケーノ」や、その由来ともなっている、イタリア語の  volcano  やラテン語の  mons vulcanius  や、さらに遡れば、古代のローマ神話に登場する、火の神である「ウルカヌス」(Vulcanus)と、まったく無縁の存在ではなく、この神の英語読みが、そのまま「ヴァルカン」(Vulcan)でもあった。したがって、このような火の神と――その一方では「ヨーロッパの火薬庫」とも称されている、バルカン半島がヨーロッパにおいて、ひいては世界全体において、はなはだ危険な「火山」のイメージで結び付いているとしても、それは至って当然の話なのであった、と言えば言える。

ところで、そのようなバルカン半島で火の手が上がった、いわゆる「第一次世界大戦」に日本も参戦をし、当時、ドイツの租借(ソシャク→lease→賃貸!)地であった、中国の山東半島の青島(チンタオ)を占領し、そこから大陸侵略への野望を滾(たぎ)らせていくことになる。この時期のエピソード(episode=挿話的出来事)については、このブログ(第162回:志賀重昻論・第三話)でも、僕は君に、出目昌伸(でめ・まさのぶ)の監督した『バルトの楽園(がくえん)』(2006年)を、紹介しておいたことがあるけれども、この頃、この映画の主人公、松江豊寿(まつえ・とよひさ)が所長を務めていた、徳島県鳴門市の「板東(ばんどう)俘虜収容所」には、結果的に約1000人ものドイツ兵が戦争捕虜となり、この戦争の終結の翌年(1920年)まで、三年近くを過ごしていた訳である。

そして、君も知っての通り、この俘虜(フリョ→prisoner of war→POW)の収容所において、はじめて日本でベートーヴェンの交響曲第九番(Sinfonie Nr.9)が、全曲を通して演奏されたことは有名であるし、上記の映画も、その演奏の日(1918年6月1日)に焦点を絞って、物語は展開していくことになる。でも、このような「第九」の初演や、ひいては、それ以外の収容所(大阪、久留米、名古屋......)から誕生した、カール・ユーハイムの「バウム・クーヘン」や「マロン・グラッセ」や、アウグスト・ローマイヤーの「ロース・ハム」や、ハインリヒ・フロイントリープ(英語読み→フロインドリーブ)のパンや洋菓子も含めて、この時期のドイツ人と日本人との間に産み出された、ある種の文化交流(cultural exchange=教養交流)を、もっぱら美談として語るのは、いかがであろう。

その点を踏まえて、僕は再度、ここで夏目漱石(なつめ・そうせき)を引き合いに出しながら、このような「世界戦争」の渦中において、彼が胃潰瘍を患い、床に臥(ふ)し、血を吐き続けたことや、それにも拘らず、その最中(さなか)に彼は、みずからの人生の最後の三年間に――と、君や僕は知っており、漱石自身は知っていない、わずかな歳月に次々と、みずからの代表作を書き継いでいったことを、想い起こしておくことにしたい。しかも、この戦争が終結するのを知らないまま......ましてや二十年後には、ふたたび二度目の「世界戦争」の幕が切って落とされるのも知らないまま、このような一度目の惨劇の勃発の年に、夏目漱石は『行人』と『心』を出版し、その翌年には『硝子戸の中』と『道草』を刊行し、そして、その翌々年には『明暗』を遺作として、この世を去った次第。

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