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富☆士☆山(第七話)――「教養」の来た道(174) 天野雅郎

今年(平成二十八年→2016年)は夏目漱石(なつめ・そうせき)が亡くなった年(大正五年→1916年)から数えると、ちょうど百年目(没後100年!)に当たっている。そこで世間では、いろいろ漱石関連の催事や出版や、露骨に言えば、百年に一度の金儲けが目白押しになっている。が、僕自身には特段、これと言った感慨はないし、むしろ厳密に勘定をすれば百年と、さらに五年前に彼(夏目金之助)が、その生涯に一度、和歌山を訪れた際、登った和歌浦の奠供(てんぐ)山と、いつも僕は向かい合っている訳であり、そこから「百年は〔、〕もう来ていたんだな」(『夢十夜』第一夜)と、幸運にも毎日、繰り返すことが出来るし、それだけで充分なのであって、このことは一年以上前に、このブログ(第103回:夏目漱石、途中下車)においても、すでに君に伝えておいた通りである。

ところで、そのような夏目漱石の、臨終の日の模様については、あれこれ「漱石ゴシップ」と称される、その語義(gossip→godsib→神父→ゴッド・ファーザー)とは一見、裏腹の噂(うわさ)話が遺されていて、それはそれで、興味深い点も多いし、その気が君に起きるのなら、長尾剛(ながお・たけし)の『漱石ゴシップ』(1993年、日本映像出版)が簡単に、今でも文春文庫で読めるから......と書いて、気になったので調べてみると、残念ながら絶版の様子。――もっとも、それならば逆に、このような神の血縁者ではなく、人の血縁者に登場を願い、まさしく「父・臨終の前後」と題された、夏目漱石の次男、夏目伸六(なつめ・しんろく)の『父・夏目漱石』(1956年、文藝春秋)の一篇を、今度は確実に、文春文庫で手に入るのを確認した上で、僕は君に紹介しておくことにしたい。

とは言っても、このような夏目漱石の「臨終の前後」は、すでに漱石自身が鬼籍に入ってから、四十年の時が経ってからの話であって、冒頭に「私の父が死んだのは、大正五年の十二月九日で、その日は、風もなく、暖い、小春日和(びより)の土曜日であった。〔改行〕当時〔、〕私は、数えどしの九ツで、まだ小学校の二年生に過ぎなかったけれど、その日のことは、比較的はっきりと覚えている」......という書き出しで始まる、この回想録を、どこまで君や僕は事実談として、受け止めることが叶うのであろう。もっとも、その中には彼(夏目伸六)の、息子(むすこ=生す子)の側の思い出に留まらない、文字どおりの「母の話」という回想録も書き残されていて、言ってみれば、それが家族(family=家僕)で共有された思い出である分、君や僕にとっては、むしろ興味深い点であろう。

 

母の話によると、私の〔、〕すぐ上の姉が、家とは、ものの一町と離れていない、すぐ近くの小学校に通っていた関係から、一番早く、臨終の父の枕辺に連れて来られたのだが、多分、あまりに面(おも)やつれのした父の顔を見て、急に悲しくなったのだろう、しくしくと泣きだしたのを、隣に座った母が、小声で、泣くんじゃないと〔、〕たしなめた、その声が、聞えたものか、父が、眼をつむったまま、〔改行〕「いいよ〔、〕いいよ、泣いても〔、〕いいよ」〔改行〕と云ったという。

 

ちなみに、遡れば夏目漱石が結婚をするのは明治二十九年(1896年)の、満29歳の折であって、ちょうど数えの30歳に当たる。この時、彼は九州で、現在の熊本大学の前身である、旧制第五高等学校(略称「五高」)の教師をしていた。なお、この時の教え子には言うまでもなく、物理学者の寺田寅彦(てらだ・とらひこ)がいるし、このような「五高」の卒業生には、この一連の文章(「教養」の来た道)に登場済みの顔ぶれを並べると、経済学者の大内兵衛(おおうち・ひょうえ)や哲学者の三枝博音(さいぐさ・ひろと)や久野収(くの・おさむ)がいる。また、僕が尊敬して止まない、国文学者の西郷信綱(さいごう・のぶつな)も、ここに名を逸することは出来ないし、教師の側には夏目漱石の前任者として、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがいたことも、見逃されてはならない。

そのような「五高」時代に、すでに前年(明治二十八年→1895年)の末に婚約をしていた、中根重一(なかね・しげかず)の長女、鏡子(きょうこ)と夏目漱石は結婚をし、明治三十六年(1903年)までの七年間、熊本において高等学校の英語教師(講師→教授→英語主任→教頭心得)を務めることになるのであるが、その間には当時の文部省から、英語研究のために英国留学を命じられ、明治三十三年(1900年)の秋から明治三十六年(1903年)の春まで、熊本を離れることになる。もちろん、その意味において漱石自身は、いまだ一人の、高等学校の英語教師に過ぎなかった訳であり、漱石(ソウセキ→「石に漱〔くちすす〕ぐ」人→負け惜しみが強く、いつも「屁理屈」ばかりを言っている、変わり者)という雅号も、小説を書く際のペン・ネームではなく、俳句を作る折の俳号であった。

ところが、当然と言えば......当然のことながら、この熊本において、彼には長女の筆子(ふでこ)が、まず明治三十二年(1899年)に誕生し、それから続いて、次女の恒子(つねこ)が明治三十四年(1901年)に、彼自身の英国留学中に産声(うぶごえ=初声)を上げることになる。――要するに、このようにして夏目漱石は、彼の三十歳代に一人の、父親ともなっていった訳であって、それが中国語の父(フ)という形で、手に斧(フ、日本語→おの)を持つ男の姿を指し示すのか、あるいは日本語の「ちち」のように、それが万葉仮名で「知知」(ちち)と表記されうる存在であるのか、はたまた英語のfatherのように、どこかに宗教的な指導者(pater)や、その祈りや響きを喚起する語であるのかは別にして、彼は一人の、家族を養い、家庭を育む側へと、その身を置き換えることになる。

このような状況は、夏目漱石が英国留学から帰国して後も、彼の三十歳代から四十歳代に掛けて、続いていくことになるのであり、明治三十六年(1903年)には三女の栄子(えいこ)が、明治三十八年(1905年)には四女の愛子(あいこ)が、それぞれ誕生し、そこから今度は、長男の純一(じゅんいち)が明治四十年(1907年)に、その翌年(明治四十一年→1908年)には次男の伸六が、産声を上げることになる。......と、このようにして振り返ると、単純に割り切れば夏目漱石の、職業作家になって以降に生まれたのが、二人の男の子であり、逆に女の子は、明治四十三年(1910年)に生まれて、わずか二歳に満たない生涯を閉じた、五女の雛子(ひなこ)を除けば、四人の娘(むすめ=生す女)は全員、職業作家となる以前の夏目漱石(と言うよりも、夏目金之助)の娘であった訳である。

その中で、すでに今回、登場して貰(もら)っているのが次男の伸六と、もう君の方では、すっかり事情が分かっているであろう、四女の愛子である。――と言い出すと、この四女が実は、このブログ(第168回:富☆士☆山)で、僕が君に「富士山」の話をし始めた際、登場して貰った、あの『吾輩は猫である』のモデルの黒猫の、まさしく「猫の墓」(『永日小品』)の前の「四つになる女の子」であったことを、君は想い起こしてくれているのではあるまいか。なお、その時、僕は思わせ振りに、この四女の行為を書き写し、それが「富士山」とも、きっと深い繋がりを持っているに違いない、と言っておいたけれども、その繋がりに即して、ここでは再度、今度は次男の伸六の目から見た、この「末娘の四女」と夏目漱石の、娘と父の関係を、またもや思わせ振りに、僕は君に伝えよう。

 

恐らく、父としては、姉弟中で一番愛する〔、〕この幼い末娘が、自分のために、しくしくと、悲しそうに、泣きじゃくる姿を、ただ〔、〕しみじみと、嬉しく感謝する気持ではなかったかと思う。父は、自分が、常々子供等から、ひどく恐れられているということを、よく知っていたはずであり、それと同時に、この姉だけが、不思議と少しの怖れ気(げ)もなく、真向〔まっこう〕から、この父に〔、〕なついていた事実を、誰よりも、はっきりと、自覚していたはずだからである。〔改行〕私と兄が、母に手を引かれて、父の枕頭に座った時、今まで眼を閉じていた父が、ふと眼をあけて、私等の顔を見て、笑ったけれど、その笑顔も、私にとっては、未だ〔、〕かつて見たことのない、不思議な笑顔に違いなかった。そうして、父は、私等より遅れて帰って来た他の姉達の嗚咽(おえつ)には、〔改行〕「泣くんじゃない。いい子だから」〔改行〕と云ったのである。なぜ父は、末娘の四女にだけ「泣いてもいい」と云ったのだろうか。

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