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酒と涙と男と女(承前)――「教養」の来た道(184) 天野雅郎

酒と涙と男と女――という表題は、言うまでもなく、僕が大学生であった頃(昭和50年→1975年)に発売され、やがてヒット曲となった、河島英五(かわしま・えいご)の歌の題名(『酒と泪と男と女』)を、そのまま捩(もじ)ったものである。ただし、僕自身には充分に、その成り立ちが分からない「泪」の字を、この場では「涙」の字に変えておいたので、あしからず。また、はなはだ困ったことに......このような「酒」に因(ちな)んだヒット曲の数々が、僕自身は大の苦手(にがて)であって、例えば、美空(みそら)ひばりの『悲しい酒』から始まって、渥美二郎(あつみ・じろう)の『夢追い酒』も、小林幸子(こばやし・さちこ)の『おもいで酒』も、細川(ほそかわ)たかしの『北酒場』も、吉幾三(よし・いくぞう)の『酒よ』も、どうにも僕は生来、肌が合わないのである。

ところで、そのような『酒と泪と男と女』が流行(はや=逸)っていた時分――とは言っても、そのこと自体に特に、何か深い繋がりが、ある訳では(......^^;)ないけれども、僕が頻(しき)りに読んでいたのは中村光夫(なかむら・みつお)の文学評論であって、その文学評論に僕が、どれほど日本の「近代文学」への目を見開かされたのかは、まさしく筆舌に尽くし難いほどである。実際、今も我が家(天野図書館)の本棚には、その頃に読み耽(ふけ)っていた、岩波新書の『日本の近代小説』(1954年)や『日本の現代小説』(1968年)を始めとして、筑摩叢書の『明治文学史』(1963年)や新潮選書の『明治・大正・昭和』(1972年)や、あるいは『想像力について』(1960年、新潮社)や『藝術の幻』(1969年、講談社)や『近代の文学と文学者』(1978年、朝日新聞社)が並んでいる。

が、その中でも一番、僕が目を通した記憶が残っているのは、講談社から昭和四十三年(1968年)に刊行され出した、全四巻の『中村光夫作家論集』と、まったく同じ年に出版された、文藝春秋の「人と思想」シリーズの中の『日本の近代』であったに違いない。そして、その内の後者の、当初は昭和二十五年(1950年)に河出書房から上梓(ジョウシ)された、彼の代表作の一つである『風俗小説論』の章を、僕は目下、読み直している訳である。なお、この本の奥付(おくづけ)を捲(めく)ると、どうやら僕は、この本を昭和四十九年(1974年)に購入したようであり、それは僕が大学生になって、それほど時間が経っていない時期に読んだ本であったことになるし、おそらくページに残されている、赤い傍線の跡を見ると、この章を感心(?)にも、いちおう僕は目を通したようである。

ちなみに、この章を今、僕が読み直しているのは、その冒頭に小栗風葉(おぐり・ふうよう)の『靑春』が、取り上げられているからに他ならない。とは言っても、それは「明治時代に大きな世評を呼んだ小説のうち、風葉の『青春』くらい惨めに忘れられた小説は〔、〕ないでしょう」として始まる、いたって否定的な取り上げ方であり、そこから導き出される結論も、きわめて否定的であった。――「このように華々しかった風葉の人気が、なぜ〔、〕あれほど急速にしぼんでしまったかというと、当時の文壇の〔、〕いろいろ厄介な〔、〕いきさつを抜きにして云えば、結局彼の小説が〔、〕それだけ弱点を持っていたと見るほかはありません。〔中略〕結局『青春』の致命的な欠陥は、作者が古い技巧で新しい人間を描こうと企てながら、それを描き切れなかったところにあったと思われます」。

と、このように述べながら、中村光夫は片岡良一(かたおか・りょういち)の『近代日本の作家と作品』(1939年、岩波書店)を引き合いに出しているので、この際に僕自身も、その一章(「処女作時代の小栗風葉」)を振り返ってみたのであるが、そこには興味深いことに、このブログ(第180回:田舎者め!)で君に伝えておいた、あの「田舎者」という語が、何度も使われている。すなわち、片岡良一に言わせれば、小栗風葉は「紅露時代」と称される、この当時の文壇において、一方では尾崎紅葉という、一方では幸田露伴(こうだ・ろはん)という「他からの借物によって〔、〕まず身を装おうとした人」であり、そのような身の装い方自体が、もともと「文学的教養」や「思想的根柢」とは折り合いの付かない......いたって「田舎者らしい素朴な勇敢さ」に、起因するものであった次第。

 

その代り、文章表現には非常な努力が払われて、露伴・西鶴・紅葉など、いろいろな先進からの影響を融け込ませた、紅葉風より〔、〕もっと濃艶な――と云って不明確なら、もっと厚化粧の、結局〔、〕風葉風という以外〔、〕称〔よ〕びようのない文致を、漸く確立しかかるところまで漕ぎつけたことになっている。〔中略〕露伴を模し西鶴に擬し、紅葉に倣〔なら〕っているうちに、そうしたものの抱合したような、ひどく〔、〕こってりした「風葉の文章」が、自然形を取りはじめたのだと云えるかも知れない。〔中略〕それは所詮は「田舎者の硯友社文学」という奇妙なレッテルを貼らるべき作品であったのだと思う。そうして〔、〕その奇妙さの含む中途半端さと特異性とが、云わば風葉独自の世界であったのだ。彼は〔、〕その生涯を通じて、結局その中途半端さと特異性とを超克する程、徹個性的でもなければ、徹戯作者的でもあり得なかったのだ。

 

この一章が物(もの)されたのは、昭和十年(1935年)のことであるから、ちょうど小栗風葉の没年(大正十五年・昭和元年→1926年)からは10年を隔てて、また、代表作である『靑春』の執筆からは30年を隔てて、すっかり彼の人気(popularity)も、がた落ちであったことが分かる。とは言っても、そもそも人気とは常に、大衆的(popular=通俗的)なものであるし、その限りにおいて、ポップ(pop)なものでしか......ありえないから、このような文学評論を物差しにして、一人の作家の人気を云々(ウンウン→ウンヌン)すること自体に意味がない、と言えば言える。けれども、少なくとも「彼が硯友社系統の作家として、後には紅葉の衣鉢を継ぐとまで云われた人」(同上)であった時期は、どうやら当時、あまりに呆気(あっけ)なく、通り過ぎ、終わってしまっていたかのようである。

この点は、中村光夫も『靑春』に即して、やがて小栗風葉が「日露戦後の新時代」の中で、どのような「努力」をし、そこから彼が、結果的に「成功」から「悲惨」へと転落を遂げることになるのかを、次のように述べている。――「青年時代に紅葉と露伴のあいだを巧みに泳いで、その作家的地歩を築いたように、外国文学の影響が〔、〕ようやく圧倒的になった日露戦後の新時代と、硯友社文学技法との混合を企てたので、『青春』は作者に同情して云えば〔、〕この痛ましい努力の記念碑と見られます。『金色夜叉』から『蒲団』まで、わずか数年のあいだに推移してしまった、当時の文壇の過渡期の性格を、消極的ではあるが、もっとも忠実に反映した作品なので、それが易々として得た華々しい成功と、まもなく陥った不当なほど悲惨な忘却との謎を解く鍵も〔、〕ここにあると思われます」。

もっとも、このように指摘する一方で、中村光夫が小栗風葉の『靑春』を、歴史の闇に埋もれさせ、葬り去ろうとしている訳ではないことも、付け加えておく必要がある。それどころか、むしろ中村光夫に言わせれば、もともと「青春」とは一人の人間にとっても、一つの時代にとっても、必然的に訪れる過渡期であり、それは「古いものと新しいものの並び存するときであり、その〔、〕いずれもが完成と円熟から遠く距(へだた)った時期」であった。要するに、それは「ある意味で不幸な時代」ではあっても、そこには逆に「時代の未熟から立枯れに終った〔、〕さまざまの可能性の芽を探る」ことの出来る時期でもあった訳である。......と、このような言い回しが当時、高校生から大学生になって、間も無い頃の僕の胸には、とても、とても、沁(し=染)み渡る言い回しであったのである。

 

おそらく〔、〕ひとりの人間の生涯にも、彼が後に実現し得たより、はるかに多くの可能性を孕〔はら〕んで生きる青春の一時期があるように、時代精神の巨大な流れのなかにも、やがて歴史の必然によって刈りとられる幾多の不運な芽が並んで萠〔も〕え立つ青春期が〔、〕何十年に一度かずつは〔、〕めぐってくるのです。我国の明治文学で、もっとも〔、〕その名に価する時期は、漱石が『猫』を発表した明治三十八年〔1905年〕から、花袋の『蒲団』までの二年あまりであったと思われます。〔改行〕青春が〔、〕おのおのの個人にとって、悔恨と哀惜の対象になるのは、そこで実現の機を見出せなかった幾多の生への可能性によるのであるとすれば、僕等は〔、〕すでに人間の生涯に近い時間を経過した我国の近代文学史の或るモメントに対して、真剣な悔恨の情を抱くべきではないでしょうか。〔改行〕青春は、必然に過渡の時代です。

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