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『靑春』を読む(第三回)――「教養」の来た道(189) 天野雅郎

そもそも「女学生」とは、いつ、どのようして誕生したものなのであろう。......と思って、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「女学生」の語を調べてみると、そこには「女子の生徒。また、女学校の生徒」という語釈が置かれていて、用例には明治五年(1872年)の『新聞雑誌』(第40号)の記事――「冀(こひねがはく)は邦内四方の女学生〔、〕能々〔よくよく〕注意し勉励〔ベンレイ→「勉め励む」こと〕ありたし」が挙げられている。なお、この『新聞雑誌』という新聞(雑誌?)のことは、僕は以前、このブログ(第25回:学生便覧について)で、君に話をしたことがあるから、もう3年余りも前の文章になるけれども、君に関心があるのなら、その一節を再度、読み直して貰(もら)えると有り難い。と言うことは、いたって実行が困難である、という意味でもあるが。

さて、このような用例を見ると、どうやら「女学生」は誕生の当初から、とにかく「勉励」の必要な存在であったらしい(......^^;)と思い込むのは、大きな間違いであって、この年(明治五年)に日本で最初に姿を見せた、仮に「女学生」の一人が君であったとしたら、その時の君の胸には、どのような決意や情熱が芽を吹き出しているのかを、君は想像してみれば、よいのである。ちなみに、この年は折しも、福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち)の『学問のすゝめ』が刊行され始めた年でもあるし、さまざまな身分制度も廃止され、いわゆる僕婢(ボクヒ)や娼妓(ショウギ)が解放され、人身売買も禁止され、職業選択の自由が認められたりして、そこでは「文明開化」(civilization=westernization)や「啓蒙主義」(enlightenment)の光と影の、特に光の面が、際立った年であった訳である。

そして、その最たるものが、この前年(明治四年→1871年)に新設された文部省(現:文部科学省)でもあれば、この年(明治五年→1872年)に公布された「学制」と、その序文(学事奨励に関する太政官〔だじょうかん〕布告)でもあった次第。――と言う訳で、以下に僕は日本初の、この近代的な教育制度の基本法令(学制)の、その序文の冒頭を、ぜひとも君に読んで貰いたく、次に掲げておくことにする。ただし、残念ながら原文のままでは、きっと君には相当に読み辛く、ひょっとすると君が中途で投げ出さないとも限らないから、この場では旧漢字や旧仮名遣いに、こだわることを止め、あえて新漢字と新仮名遣いに直した上で、適当に句読点や読み仮名を振ったり、漢字を平仮名に変えたり、それどころか、全文を片仮名表記ではなく、平仮名表記に改めておいたので、ご了承を。

 

人々、自(みずか)ら其(そ)の身を立て、其の産を治め、其の業を昌(さかん)にして、もって其の生を遂(とぐ)る所以(ゆえん)のものは他(ほか)なし。身を修(おさ)め、智を開き、才芸を長ずるによるなり。而(しかし)て其の身を修め、智を開き、才芸を長ずるは、学にあらざれば能(あた)わず。是(こ)れ学校の設(もうけ)ある所以にして〔中略〕人、能(よ)く其の才のある所に応じ、勉励して之(これ)に從事し、而て後、初(はじめ)て生を治め、産を興し、業を昌にするを得(う)べし。されば学問は、身を立(たつ)るの財本(ざいほん)共(とも)とも云(いう)べき者にして、人たるもの、誰か学ばずして可ならんや。

 

目下、この時点から数えれば、すでに145年ばかりの時間が経っているし、現在の君や僕が上記のような、実に楽観的(optimistic=最善的)な「布告」の言い回しを読むと、そこには「文明開化」や「啓蒙主義」の、むしろ悲観的(pesimistic=厭世的)な、影の面が浮かび上がってきて、なんだか白々しい気分に浸らざるをえないのが、正直な感想であろう。事実、この「学制」の公布以降、どれほど多くの夢や希望を、いわゆる「学」や「学校」が日本人に与えてきたとしても、それと並ぶほどの、それどころか、それより多くの......はるかに多くの、現(うつつ=空・虚・鬱・欝)や失望を日本人に齎(もたら)してきたことは、疑いようがないし、その挫折感や閉塞感は逆に、今の君や僕が生きている、この「日本国」に近づけば近づくほど、その程度が増大するのでは、あるまいか。

その点、いまだ小栗風葉(おぐり・ふうよう)の生きていた時代や、その頃の日本(すなわち、大日本帝国)の状況と比べるならば、彼が『靑春』の中に描き出し、登場させた人物たちにとっての「学」や「学問」は、ずいぶん君や僕の抱いている、学問観や学校観とは違うものであろうし、違って当然のものであるし、違わざるをえないものでもあったはず。でも、僕自身は不思議なことに、この『靑春』という「青春小説」を読んでいて、どこか主人公の関欽哉(せき・きんや)や小野繁(おの・しげる)の、考えや行いが理解できるし、場合によっては共感もできるし、そのような主人公たちの背後で、まさしく鬱欝(うつうつ)として筆を執り続けている、小栗風葉という作家にも親近感を感じ、この「青春小説」が110年も昔のものであったとは、信じ難かったのが正直な感想である。

その意味において、先刻の「学制」は結果的に、その理想主義的な、言ってみれば、絵に描いた餅(pie‐in‐the‐sky)であったことから、たちまち頓挫を来たし、やがて明治十二年(1879年)には「教育令」が公布され、いささか現実主義的な、路線変更が施されることになるのであるが、この過程(プロセス)は存外、小栗風葉という作家の生涯や、その作品を振り返る折には、かなり重要な要素であったのではなかろうか。なぜなら、その「教育令」の公布に従って、彼(すなわち、小栗磯平)は最初、明治十四年(1881年)に郷里(愛知県知多郡半田村)の村立の小学校(半田村小学校)に入学し、それから5年後(明治十九年→1886年)には、今度は再度の「学校令」の公布に伴って、その翌年に郡立の高等小学校(衣ヶ浦高等小学校)へと、編入学を果たすことになったからである。

しかも、この高等小学校に通う内、彼は新任の英語教師、野島金八郎(のじま・きんぱちろう)の感化を受け、この「金八先生」(!)の影響下で、当時の最新の文芸雑誌であった、例えば『都の花』や『新小説』を読み始め、それが高じて、作家への道を模索するに至った訳である。おまけに、この師弟関係は小栗風葉が、高等小学校を卒業してからも続き、すでに僕が、このブログで君に報告を済ませておいた通り、明治二十三年(1890年)に彼が父親に伴われ、はじめて上京し、薬学学校や商業学校を転々とした後、この「金八先生」の口利きで、矢野龍溪(やの・りゅうけい)の創設した錦城学校(→錦城中学校)に入学し、そこで坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)や森田思軒(もりた・しけん)の講義を聴き、いよいよ小説を書くことへと、のめり込んでいくことにもなるのであった。

要するに、このようにして一人の人間の、生活や人生や、とりわけ生業(音読→セイギョウ、訓読→なりわい)に対して、きわめて甚大な関わりを有するのが「学校」であったし、その「学校」において生じざるをえない、さまざまな人間関係であって、この点は君も僕も、否応(いやおう)なしに、認めざるをえない点であろう。その点において、小栗風葉が明治二十四年(1891年)に尾崎紅葉(おざき・こうよう)と、はじめて対面し、その門に入るのが、まさしく第一高等中学校(→第一高等学校→東京大学教養学部)への入試の失敗(!)を、経た後の出来事であったことに、僕自身は興味がある。また、それが『靑春』の主人公、関欽哉の姿と二重写し(overlap)になって、この「天才」が「学問」や「学校」に嫌気が差し、放棄していく姿を彷彿(ほうふつ)させることに関しても。

 

何にしても、自分で稼〔かせ〕いで勉強為(し)ようなんて無理ですよ。苦学だの独学だのと云〔い〕う事は殆〔ほとん〕ど最〔も〕う不可能(インポシブル)で、今日〔こんにち〕の学問教育は到底〔、〕規則的、秩序的で無ければ頭へ入らないようになって居る。何でも学問為〔す〕るには筆記と暗記! 人を作るのは月謝と試験! 丁(ちゃん)と恁(こ)う決〔きま〕って居るのだから。平々凡々なそれは、常識の石塊(いしッころ)のような人間は妄(むや)みに転〔ころ〕げ出そうが、那様(そんな)中から天才者の欠片(かけら)だって出る筈〔はず〕が無い! 有る天才も滅〔ほろぼ〕されて了〔しま〕う!

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