ホームメッセージ『靑春』を読む(第六回)――「教養」の来た道(192) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

『靑春』を読む(第六回)――「教養」の来た道(192) 天野雅郎

前回、僕は君に小栗風葉(おぐり・ふうよう)の『靑春』の中で、主人公の関欽哉(せき・きんや)が高等学校の頃の旧友、北小路安比古(きたこうじ・やすひこ)と出会い、お互いの「青春」を回顧する場面を紹介し、筆を擱(お)いたのであるが、ひょっとすると君は彼らが、今の君や僕とは決定的に異なる、その名の通りの「エリート」(elite=選ばれた者→選良)であったことに対して、けっこう無関心で、無自覚になっているのではないか知らん。......と思ったので、あらためて僕は関欽哉という、この「青春小説」の主人公のことを、いろいろ君に知って貰(もら)いたく、この人物(character→キャラクター→キャラ!)の性格や気質や特徴について、その「特徴づけ」(characterization=性格描写)を図りながら、当時の時代状況も踏まえつつ、君に情報提供を試みておきたい。

もっとも、このようにして先刻来、僕が「エリート」という語を使っているからと言って、そのまま当時、今から100年以上も前に、この「エリート」という語が存在していたのかどうかは疑わしい。なぜなら、この語を恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で調べてみると、そこには「ある社会において、将来その社会の知的指導者層の一人となりうるような優秀な素質、力があると認められた者。また、その結果として社会的に高い地位を与えられて、指導的な役割を果している人。選良」という語釈に引き続いて、用例に挙げられているのは、中村光夫(なかむら・みつお)の『風俗小説論』(昭和二十五年→1950年)であって、その表記も「エリート」ではなく「エリット」となっており、この語が日本語として普及する以前の、いまだ雰囲気を醸(かも)し出しているからである。

ちなみに、この語を中村光夫自身は、フランス語(élite)経由で使っているに違いないが、すでに最初に英語に、この語を持ち込んだのはバイロン卿(George Gordon Byron)のようである(『英語語源辞典』1997年、研究社)から、その歴史は200年近くに及んでいるし、これが明治時代以降、私たちの国に輸入され、例えば「選良」という訳語で用いられていても、まったく不思議ではないけれども、ふたたび『日本国語大辞典』で「選良」の語を引くと、そこには逆に昭和六年(1931年)の、伊林秀春(いばやし・ひではる)の『新撰現代語字典』が典拠に載せられていて、この語が意外にも、いわゆる満州事変の勃発や、大阪帝国大学の創設と同じ年の「現代語」であったことが、よく分かる。なお、中村光夫の『風俗小説論』については、後で再度、立ち返る予定であるので、その折に。

ところで、このようにして関欽哉や、あるいは北小路安比古の通っていた、その頃の高等学校は現在の、いわゆる「新制高等学校」に対して「旧制高等学校」(→旧制高校)と呼ばれているが、それは単純に新旧の、前後関係を指し示す語であり、価値の序列を指し示す語ではないので、誤解のないように願いたい。また、この間の事情を君が、そもそも理解できていないと困るから、ここでも僕は『日本国語大辞典』を繙(ひもと=紐解)いて、この「旧制高校」の語釈を、以下に紹介しておくことにしよう。――「現在の六三三四制以前に設置された高等学校。すなわち、明治二七年(一八九四年)の高等学校令の公布から、昭和二三年(一九四八)、学校教育法による新制高等学校が発足するまでの間の高等学校の称。旧制中学の四年修了を入学資格とし、文科・理科に分かれ、修業年限は三年」。

さて、このような高等学校に当時、関欽哉も北小路安比古も、共に通っていた訳であるが、この「高等学校令」の公布以降、日本には高等学校が当初、あわせて7校(!)しか存在しておらず、その数字自体を、まず君には驚いて(......^^;)欲しい限りである。この7校は、そのまま設立の順序に従って番号を振られており、いわゆる「ナンバースクール」という和製英語で呼ばれている。順次、名前を挙げておくと、東京の第一高等学校、仙台の第二高等学校、京都の第三高等学校、金沢の第四高等学校、熊本の第五高等学校、岡山の第六高等学校、鹿児島の第七高等学校(造士館)と続く。しかも、このような高等学校の生徒数(と言うよりも、正確に言えば「学生」数)は、どうやら4300人程度に過ぎなかったようであるし、彼らを教える先生たち数も、何と、全国で275人であったらしい。

と、このような数字を目下、僕は手許の「日本国勢図会」の長期統計版(『数字で見る日本の100年』2000年、国勢社)のページを捲(めく)って、いろいろ君に報告をしているけれども、ちょうど小栗風葉が『靑春』の執筆を開始した、明治三十八年(1905年)の数字も、ここで参考までに振り返っておくと、結果的に高等学校は8校に増えていて、これは多分、山口の山口高等学校を含めての数字のようである。なぜなら、このような「ナンバースクール」の最後の一校として、名古屋に第八高等学校が追け加わるのは明治四十一年(1908年)のことであり、いまだ関欽哉の郷里の愛知県には、まったく高等学校が存在していなかったからである。おまけに、それは小栗風葉という作家の側から眺めると、このような高等学校以前に、彼の郷里には高等中学校が存在していなかったことになる。

なお、この『靑春』の冒頭に、まず関欽哉が登場した段階で、彼は「今年二十五」(歳)の「文科大学の一年」(生)であったから、その生年は明治十四年(1881年)に設定されていた訳である。と言ったのは、この「青春小説」が上記の通り、明治三十八年に「読売新聞」に連載され始めた時から、そのまま25年を逆算しての話であるが、この年(明治十四年)は小栗風葉に即して振り返れば、彼が7歳で郷里(愛知県知多郡半田村)の小学校に入学した年に当たっており、言ってみれば、この7年という歳月で隔てられながらも、この小説の作者と主人公は、同じ「三河(=三州)豊橋」という場所(トポス)に、徐々に引き寄せられていくことになる。そして、この二人が共に、どちらも愛知県の西部の尾張から、やがて東部の「三河豊橋」へと、養子になって移り住んでいく点も同じである。

その意味において、このような「尾張人」の特徴について、ふたたび『青春』の中で北小路安比古が、同じ「尾張人」の関欽哉と佐藤福太郎(さとう・ふくたろう)を並べて、次のように語っている箇所があるので、ご一読を。――とは言っても、あらかじめ僕は君に、この三者の関係を色々、説明しておく必要があるけれども、その点は残念ながら、次回に譲ることにして、ここでは小栗風葉が一種の、自己分析と言おうか、自己批評と言おうか、それこそ自己の性格(キャラクター)に関して、性格描写を施している点を指摘しておきたい。なぜなら、それは結果的に、かつて中村光夫が『風俗小説論』の中で非難した、この『靑春』という小説の「失敗の原因」と、その失地回復(?)にも、通じる話ではないのか知らん、という仄(ほの)かな希望を、僕に抱かせるものでもあったから。

 

尾張人は総体〔、〕意志が弱いようだ。関でも佐藤でも皆然〔そ〕うで......些〔ちょ〕っと才気も有り〔、〕利口でもあるが、何〔ど〕うも片(うすっぺら)で堅実な所が無い。歴史上の人物を見ても、尾張から出た人物は多く何うも然ういう欠点を免れないようで――三河になると最〔も〕うガラリと違うが――例えば信長(のぶなが)にしろ秀吉(ひでよし)にしろ、唯〔ただ〕際々(けばけば)しくばかりあって〔、〕弥張〔やはり〕堅実で無い。尤〔しか〕も、三四百年も前の那様〔そんな〕古英雄なぞ例にもなるまいけれど......左〔と〕に右〔か〕く尾張人の通弊として佐藤も意志が弱かった。人一倍〔、〕情熱もあり、勇気にも富んで居たけれど、好漢〔こうかん〕惜〔おし〕むらくは意志が鞏固〔きょうこ〕で無かった為〔た〕めに、中途で終〔つい〕に堕落して了〔しま〕った!

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University