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提灯行列の話(承前)――「教養」の来た道(201) 天野雅郎

前回は偶々(たまたま=適・会)僕が「毎日新聞」(8月20日)の文化欄(「荒俣宏の毎日コレ検索」)で見つけた、いわゆる「提灯行列」の話を、君に聴いて貰(もら)ったのであるが、ふと気が付くと、この新聞記事(「日露戦争に見る熱狂と静寂」)に書かれている、前者の「熱狂」の側に話が偏(かたよ=片寄)り、きっと君も当時(明治三十七年→1904年)の日本人が、信じ難い「熱狂」の中で「日露戦争」の勃発を受け止めたことについては、理解してくれたに違いないけれども、その反面、後者の「静寂」の側には話が行き届かず、紙幅も尽きてしまった次第。また、この新聞記事の冒頭の小見出し(「記事が文学だった」)に関しても、なぜ僕が、この小見出しに関心を持ったのかを、さっぱり君には伝えることが叶わなかったのではなかろうか......と反省をしている所である。

そこで今回は、その辺りを中心にして、もう一度、荒俣宏(あらまた・ひろし)の「日露戦争に見る熱狂と静寂」の新聞記事を、僕は君と共に、読み直してみたいのであるが、まず僕が、この新聞記事の冒頭の小見出し(「記事が文学だった」)に興味を惹かれた理由から、君に説明を始めるのが得策であろう。――と、このように持って回った、遠回しの言い方をすると、いかにも難解な話題を、この場に僕が持ち出すのではないか知らん、と君に勘繰(かんぐ)られると困るので、あえて付け足しておくけれども、僕は新聞記事(newspaper article)が差し当たり、その名の通りの「記事」であり、例えば宗教や法律や、あるいは軍事用語として、この語(article)が使われる場合の、その「条項」という字義が、そのまま新聞記事にも当て嵌まるべきことを、確認しておきたいに過ぎない。

言い換えれば、このような形で箇条書きにされ、それを条目別に列挙し、項目別に並置しているのが、そもそも「記事」であり、その意味において、それは『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の語釈のように「事実を書きしるすこと。また、書きしるされた事柄や〔、〕その文章。記事文」であり、それが総じて「文章の種類の一つ」ではあっても、そこには「事実、事物を主として叙述する文。記実文」であることに特徴があり、その本質も使命も、あるのであって、この点を抜きにすると、結果的に「記事」は「記事文」や「記実文」では、なくなってしまうのである。......と評して、かつて僕が君に報告を済ませておいた、あの寺田寅彦(てらだ・とらひこ)の「ニュース映画と新聞記事」や「ジャーナリズム雑感」は、それぞれ「新聞記事」や「報道記事」を批判していた訳である。

裏を返せば、そのような「新聞記事」や「報道記事」の名に値しない「記事」が、この当時――これらの「随筆」を寺田寅彦が『映画評論』や『中央公論』に掲載した、昭和八年(1933年)と翌年の日本には溢れていた、と言うことにもなるであろうか。ちなみに、昭和八年と言えば、この年の年末(12月23日)に現在の、いわゆる今上(呉音→コンジョウ、漢音→キンショウ)天皇が誕生し、この「皇太子(=継宮明仁親王)誕生」のニュースに私たちの国は、まさしく「提灯行列」に明け暮れたことが知られている。細かい数字を挙げておくと、この折の「提灯の発注は誕生日以来、東京市内からの発注だけでも400万~500万にのぼったといい、価格も、通常の5銭から倍の10銭に跳ね上がった」(『週刊YEARBOOK・日録20世紀・1933』1998年、講談社)ようであるから凄(すさ)まじい。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

これが結果的に、はたして日本中で、どの程度の数字に膨れ上がったのか知らん、と僕は興味津々(シンシン)であるけれども、そのような提灯を手に手に、行列に参加した人の群れの中には、まだ子供の時分の、僕の父親や母親も混じっていたに相違なく、この年が折しも、ちょうど日本の「国際連盟」(The League of Nations)からの「脱退」の年でもあったことを重ね合わせると、これから僕の父親や母親が辿ることになる、世界の「孤児」であるが故(ゆえ)の苦難が、次から次へと想い起こされ、僕は意気消沈せざるをえない次第。また、その一方でヨーロッパでは、この年の年頭にドイツで、あの「ナチス」が政権を獲得し、ヒトラーが首相に就任し、こちらはこちらで、夥(おびただ)しい数のドイツ人が意気揚々と、盛大な「松明(たいまつ)行進」を繰り広げていたのである。

ともかく、このようにして「提灯行列」であれ「松明行進」(torchlight procession)であれ、それは「20世紀」と称される、この......人類史の未曾有(ミゾウウ→ミゾウ→仏教語→梵語のadbhutaの訳語→未だ曾て有ず)の百年間に、地球上で人類が繰り返した、数限りない戦争や、殺戮や破壊の象徴(symbol=割符)であったことを、僕は君に想い起こして欲しいし、それを単に歴史上の出来事として振り返るのではなく、文字どおりに君や僕の「歴史」(history=his story+her story)として受け止める、柔軟で繊細な感性(sensitivity=受容能力)が必要であることも、この場で強調しておきたい。そして、そもそも「新聞」とは、そのような「歴史」の理解の手段であり、方法であって、そうである以上は、そこに掲載されている「新聞記事」の存在理由も、単純明解なはずである。

ところが、そのように簡単に、明瞭に「新聞記事」の役割を断定できるのであれば、話は容易であるが、すでに寺田寅彦が今から、実に83年も前に述べていたように、おうおうにして「新聞記事」には「きわめて紋切り形の抽象的な記載」が多く、そこには「読者の官能的〔、〕印象的な連想を刺激するような実感的表象は〔、〕ほとんど絶無であると言っていい」のが実情であろう。したがって、寺田寅彦の言を借りれば、そのような「新聞記事というものは、読者たる人間の頭脳の活動を次第次第に萎縮(いしゅく)させ〔、〕その官能の効果を麻痺(まひ)させるという功能をもつものである」とも評される始末。実際、そのためにこそ彼自身は、むしろ「新聞記事」よりも「ニュース映画の将来」に期待し、そこに「人間の頭脳の啓発」の役割と、その「使命」を見出したのでもあった。

さて、ここまで来ると寺田寅彦も、どうやら「新聞記事」を『日本国語大辞典』の語釈のように、そのまま「事実を書きしるすこと。また、書きしるされた事柄や〔、〕その文章。記事文」と見なし、もっぱら「事実、事物を主として叙述する文。記実文」であれば事足りる、と考えていたのではなく、その「事実」が「人間の頭脳の啓発」を促すものでなければ、それは頑固な、狭隘な「事実主義」に陥るに過ぎない、と警告していたことが分かる。その意味において――と、ここで再び、ようやく君と僕は荒俣宏の「新聞記事」へと、立ち返ることになるのであるが、そこには明治三十七年(1904年)の「東京日日新聞」(10月9日)の「奥軍従軍記」において、ある一人の従軍記者が、あたかも「新聞記事」を「文学」であるかのごとく、次のように書き記していたことが述べられている。

 

一時も気を許せぬ戦場では、暦の感覚が消える。この従軍記者も占領したばかりの遼陽(りょうよう)にいて毎日取材に忙しかった。ある日、宿舎の主人から思いがけない御馳走(ごちそう)を贈られたのだが、毒入り料理を疑って手が付けられなかった。宿の主人に「なぜ〔、〕こんな贅沢(ぜいたく)な食べ物をくれるのか」と問いただしたところ、主人は笑いながら「今日は中秋だから」と答えた。十五夜の宵だったと知った記者は料理を楽しみ、眠られぬまま静寂に包まれた深夜の戦場を歩いて、満月を眺め尽くしたとある。この記事が伝えたのは、十五夜の清らかな詩情だけだ。しかも朝刊1面に〔、〕このような旅情あふれる陣中記を載せたこと自体が、ただごとではない。当時の新聞は報道記事にも風雅な文学趣味を浸透させていたといえるからだ。この時代の記事は文学でもあった。ちなみに、記事を書いた従軍記者は、のちに大作家となる岡本綺堂(きどう)である。

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