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「教養の森」を旅する人に ―― cicerone 2016 天野雅郎

【教養の森 cicerone 2016 より転載】

教養とは何か......と一度でも、これまで君は自分自身に問い掛けたことが、ある側であろうか、それとも、ない側であろうか。多分、君が高校生であった時にも中学生であった時にも、ましてや小学生であった時には、このような問い掛けに出会う機会(chance)自体が、ごく僅かであったろうし、そのような偶然(チャンス)が受験勉強に精を出す、君の興味や関心を惹く可能性も、ほぼ絶望的であったろう。が、もともと「教養」という語を分解すれば、それが「教」という字と「養」という字になる点は、きっと小学生にも分かるに違いないし、前者が音読すれば「キョウ」となり、訓読すれば「おしえ」(→おしえる)となるのに対して、後者は音読すれば「ヨウ」となり、訓読すれば「やしない」(→やしなう)となることも、よほど漢字テストに嫌気が差して、そのことで自分自身を漢字嫌い(漢字離れ?)にしている小学生ではない限り、即答してくれるのではあるまいか。

 

ただし、そこから小学生が自分自身で、まさしく自分自身を教え、養うのが「教養」である、という回答にまで辿り着くことが出来るのかは、かなり疑わしいし、それを小学生に対して期待するのも、むしろ酷な話であろう。なぜなら、そもそも彼ら、彼女らにとって、教えることは教える側の、もっぱら教員や教師や、いわゆる「先生」によって行われる行為であり、逆に自分自身は教えられる側――すなわち、いわゆる「生徒」の立場に回るのが通常であり、それが要するに、常識(common sense=共通感覚)であったからである。したがって、そこから彼ら、彼女らは、せいぜい「教養」が「教育」と同じ、一字違いの語であるかのように思い込み、この二つの語が揃って、いわゆる「先生」が「生徒」を教え、養ったり、育てたりすることであり、そこに自分自身の自主的な、能動的な行為を思い描き、想像するには至らないのが、残念ながら、日本の小学生の現状であろう。

 

ちなみに、このようにして小学生が、あるいは中学生や高校生が、それどころか大学生までもが、どうやら近年に至って、いちばん苦手(にがて)に感じているらしいのが、巷(ちまた)で喧伝されている「アクティヴ・ラーニング」(active learning)でもあることに、君は気が付いてくれているに違いない。でも、よく考えてみれば、このようなアメリカ風の、不自然な造語を持ち出さなくても、実は「苦手」とは君自身が、例えば頭痛の際に君自身の手で、みずからの頭を押さえ、その痛みを和らげ、収めようとする行為を指し示す語であって、そのような自発的治癒(spontaneous cure)と言おうか、自然治癒力(vis medicatrix naturae)と言おうか......それは古代のギリシアで、かつてヒポクラテスが自然を最高の名医と呼んだように、ほかならぬ君の体の中に、君が文字を読んだり、書いたりする営みの中に、そのまま自然に宿っている、君の力以外の、何物でもない。

 

と、このように考えるのが――何を隠そう、和歌山大学「教養の森」センターの意味する「教養」なのであって、そうであるからこそ、このセンターを英語表記に直すと、それは Center for Human Enrichment ともなる訳である。言い換えれば、おそらく君が大学生になるまで、高校生であった頃にも中学生であった頃にも、ましてや小学生であった頃には、ほとんど出会うことが叶わなかったであろう、この「教養」という人間的(ヒューマン)な、その名の通りの「人間性」(ヒューマニティー)との邂逅の場を提供するのが、このセンターの機能であり、役目であり、大袈裟に言えば、使命である。そして、そのような使命の言い換えとして、このセンターは「人間になるための教育」(the art of being a human)という標語(スローガン)を掲げ、ひいては和歌山大学も、大学を挙げて「生涯、あなたの人生を応援します」というメッセージを、君に送り、届けている次第である。

 

けれども、困ったことに日本の学校現場では、このような「人間になるための教育」としての「教養」が、なかなか機能せず、ほとんど役目を果たしていないのが実情である。事実、これまで君自身が一生懸命に、頑張って受験勉強に励むことはあっても、それは結果的に、国語や英語や数学や理科や、あるいは社会の学習に過ぎなかったのであり、その社会(society)自体が、何のために、誰のために存在し、それを例えば、どうして福澤諭吉は「人間交際」と訳すに至ったのかを......また、そのような「人間交際」において、さまざまな知識や技能を君自身が身に付け、やがて子供から大人へと成長し、いわゆる「社会人」となってからは、職業を有し、家庭を持ち、今度は反対に君自身が「後生」(=後に生まれた人)から「先生」(=先に生まれた人)の側に回り、さらに「先亡」(=先に亡くなる人)の側に辿り着くことを、君自身が考えることは、なかったのではなかろうか。

 

翻れば、このようして人間が、まさしく「人間になるための教育」を受け、そこから必然的に、みずからが人間であることを自覚し、お互いに人間である以上は当然の、必須の知識や技能を修得し、伝達するためにこそ、そもそも人間は学校(スクール)という制度を創造し、そこでは字義通りに、人間が人間になるための休息の時間(schole→schola→school)が、すべての人間に確保されるべきであり、確保されねばならないことを、あえて選択するに至ったのである。――何よりも、人間が一人の人間として、それぞれの「人間性」を振り返り、生きることや愛することや、学ぶことや働くことを、じっくり考えることが出来るように。そして、それは君自身が大学(ユニヴァーシティー)という場に身を置いて、これまた字義通りに、その普遍的(ユニヴァーサル)な共同体(universitas→university)の構成員となった折にも、まったく変わらない前提であったはずである。

 

論より証拠、このような「大学」という教育制度を、すでに一千年以上も前に案出していた、ヨーロッパの学校現場では、それこそ小学生や、それどころか幼稚園児から始まって、広く「人間になるための教育」が営まれ続けている。そのことを、君自身が知りたいのであれば、試しにジャン=ピエール・ポッツィとピエール・バルジエの監督した、フランス映画の『ちいさな哲学者たち』(原題:Ce n'est qu'un début→Just A Beginnig)を観て貰えると、有り難い。この映画の中では、人間が一人の人間として、幼稚園の園児であろうと、先生であろうと、もちろん、そこには中学生も高校生も大学生も、すべての子供も大人も含めて、人間の根源的な問い掛け(愛とは? 死とは? 友情とは? 結婚とは? 自由とは? 貧富とは?......)が提起され、お互いの言葉と言葉を介して表現され、議論され、それが最終的に、人間の特権である「文化」の名の下に、一括されている。

 

その「文化」が、実は君が目下、日本語で「教養」と称している、当のものである。すなわち、このようなヨーロッパの教育制度と初めて、今から百五十年ばかり前に遭遇することになった日本人が、それを自分たちの言葉(要するに、日本語)で、どうにかして置き換え、腑に落ちる状態にし、我が物にしようとした際に、そこから例えば、英語の「カルチャー」(culture)の翻訳語として編み出したのが、一方では「文化」であり、一方では「教養」であった。言い換えれば――そこには人間の生活と、その延長線上に姿を見せる、一人一人の人生が、一方では土を耕す農業(agri cultura)と、一方では心を耕す教養(cultura animi)の、双方によって代表され、それが本来的に、あらゆる人間の引き受けるべき、生活であり、人生であり、幸福であることを、この「文化」と「教養」という双子のような、兄弟のごとき語を通じて、日本人は理解し、今に至っているのである。

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