ホームメッセージ岡本綺堂論(拾遺)――「教養」の来た道(203) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

岡本綺堂論(拾遺)――「教養」の来た道(203) 天野雅郎

前回、僕は君に「岡本綺堂(おかもと・きどう)論」と題して、この「明治大正昭和三代の〔、〕新しい意味の歌舞伎派作家の第一人者」(秋庭太郎「岡本綺堂」)について、あれやこれやと話を始めたのであるが、いつものように紙幅が尽き、何とも中途半端な状態で、話がストップをしてしまっている。そこで今回は、その拾遺(シュウイ)という形で、もう一度、この「新しい意味の歌舞伎派作家の第一人者」の話を、僕は君に聴いて貰(もら)いたい。とは言っても、この「新しい意味の歌舞伎派作家」という言い回し自体が、そもそも矛盾に満ちた、いたって奇妙な言い回しであることに、君は気が付いてくれているであろうか。なにしろ、もともと歌舞伎(かぶき)は君も知っての通り、その起源が江戸時代にまで辿り着く、はなはだ伝統的な、文字どおりの「旧劇」であったから。

と言い出すと、意外や意外......実は君が日本の、いわゆる「演劇」の成り立ちに関しても、それ相応の素養(教養?)の持ち主であり、歌舞伎の歴史も遡れば、それが新しい、それどころか「前衛的」(avant-garde)な、あの出雲阿国(いずも・の・おくに)の「念仏踊り」に端を発していることを、君は充分に弁(わきま)えているのかも知れないね。そして、そこから昨今の「ジャニーズ」さながらに、美少年(?)たちの華麗に乱舞する「若衆(わかしゅ→わかしゅう)歌舞伎」へと、その姿を歌舞伎は変え、それが辿り着いた果てに、ようやく現在の歌舞伎のルーツである、今度は「野郎(やろう)歌舞伎」が姿を見せることも。その意味において、どのような演劇(ドラマ)も、あるいは舞踊(ダンス)も音楽(ミュージック)も、その出発点に立ち会えば、すべては新しいのである。

言い換えれば、そのような歌舞伎が新しいものから古いものへと、三百年(!)近い時間を掛けて、変化を遂げた末に、やがて産み出されるのが「旧劇」という日本語であり、事実、恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「旧劇」の語を引くと、そこには「近代以降の新しい演劇(新派・新劇)発生以前から行なわれている、わが国在来の能・歌舞伎などの演劇の総称。旧派劇。国劇。旧芝居」という語釈が置かれ、その用例として挙げられているのも、齋藤緑雨(さいとう・りょくう)の『方角早見五十音』(明治三十年→1897年)である。要するに、このようにして日本の演劇が「旧劇」(すなわち、旧派劇)と「新派劇」とに分かれ、そこから日本の演劇が新しい、近代演劇としての歩みを刻み出す時期に、その内の前者の「第一人者」として活躍したのが、岡本綺堂であった。

もっとも、このような形で何かを――演劇であれ、舞踊であれ、音楽であれ、新しいとか古いとか、称すること自体が「近代化」(modernization)と、君や僕が呼んでいるものの正体であったから、その「近代化」が一段落を付き、当時の流行語の最たるものであった「改良」(→改良主義)が、やっと平静な状態に戻るまで、このような事態は続くしかない訳である。そして、いつの時代にも、このような「改良」や「改革」や「革新」や、あるいは昨今の流行(はやり=時花)言葉で言えば、例の「イノベーション」の動きが落ち着きを手に入れると、はじめて新しいものが存外、古いものに感じられたり、古いものが逆に、むしろ新しいものに見えてきたりする......反動と言おうか、揺り返しや揺り戻しと言おうか、それは一種の「地震」のごときものと受け止めれば、よろしいのである。

ちなみに、このようにして「この時代には何事も改良というのが口癖であったので」――と岡本綺堂自身が当時を振り返り、日本の近代演劇の歴史を書き留めてくれている、かっこうの一文(「綺堂一夕話」)が『風俗明治東京物語』(1987年、河出文庫)には収められているから、これを僕は君に紹介しておくことにしよう。この一文は、もともと昭和九年(1934年)の『新潮』(1月号)に掲載されたものであり、岡本綺堂自身は当年、数えの63歳に当たり、はじめてラジオ・ドラマ(「書画屋の半時間」)を書いた年にも当たっている。また、この一文の副題には「歌舞伎と新派」とあり、いわゆる「改良演劇」や「改良芝居」や、ひいては「改良劇場」の勃興の渦の中で、若い日の岡本綺堂自身が、何を考え、何を感じ取っていたのかが、わかりやすい形で表現されていて、参考になる。

なお、この当時の一連の、この「改良演劇」や「改良芝居」の成立について、ごく簡単に説明をしておくと、これまた『日本国語大辞典』の語釈には、この「改良演劇」が「明治一九年(一八八六)に始まる演劇改良運動の主張を実践した演劇。同二四年、伊井蓉峰〔いい・ようほう→「好い容貌」......^^;〕が男女合同改良演劇と銘打って浅草の済美館で行なった公演などがある。改良芝居」と述べられていて、何と「男女」が「合同」で「演劇」を上演すること自体が、当時としては画期的な、前衛的な「改良運動」に他ならなかったことを、おぼろげに君も理解してくれるであろう。言い換えれば、このようにして日本の近代演劇は、当時、これを上演する側にとっても鑑賞する側にとっても、はなはだ大きな、時代の転機(ターニング・ポイント→分岐点)を迎えていたことになる訳である。

いちばん印象的なのは、現在では歌舞伎興行の殿堂となっている、あの「歌舞伎座」が当時は、別称で「改良座」と呼ばれていたことであろう。この点に関しては、先刻の「綺堂一夕話」の中でも、とりわけ岡本綺堂自身が述べている点であり、それは具体的(即物的?)に言えば、江戸時代から二百年以上に亘り、歌舞伎興行を続けてきた「守田(もりた)座」(旧称「森田座」)が、明治八年(1875年)に「新富(しんとみ)座」と名を改め、それが「新富座時代」(=新富町時代)と呼ばれる一時代を築いた後――とは言っても、それは高々、十年余りの「一時代」に過ぎないけれども、そこから今度は明治二十二年(1889年)に新設された「歌舞伎座」へと、業界の覇権が移動し、やがて「新富座時代は一転して歌舞伎座時代〔=木挽(こびき)町時代〕となった」ことを意味している。

さらに興味ぶかいのは、このような時代の転機に岡本綺堂自身が、まさしく生まれ合わせている点であり、この点を彼の「年譜」から辿り直しておくと、まず彼が数えの8歳の時、自分の生年(明治五年→1872年)と同年に建てられた「守田座」(→「新富座」)へと、はじめて父親に連れられて、出掛けるのは明治十二年(1879年)のことである。そして、そこから彼は13歳の、中学生の折(明治十七年→1884年)に、すでに「この頃より初めて文学者になろうと志を立て」......それが次第に、明瞭に「劇作家になろうと決心」するに至るのは、翌々年(明治十九年→1886年)のことになる。――と、このようにして跡付けると、次に掲げる「綺堂一夕話」の「少年」(中学生!)の姿に、きっと君や僕は未来の、日本を代表する「ミステリー」作家の面影を、垣間見ることが叶うに違いない。

 

そのうちに、明治二十一年の秋ごろであったと記憶している。かの〔木挽町〕三丁目の草原に劇場建設地の杭〔くい〕が建てられたのである。〔中略〕木挽町辺に改良劇場が新築されるという噂は、かねて新聞紙上でも承知していたが、その劇場は〔、〕ここに建てられるのである事を初めて知って、「やあ此処〔ここ〕へ芝居ができるのだ」などといって、私達は〔、〕いまさらのように〔、〕この草原を珍しそうに眺めたりした。〔改行〕ほかの生徒達は〔、〕ただ無邪気に眺めているだけであったが、その当時十七歳の少年であった私は、一種の注意深い眼を以て〔、〕この劇場建築の成行きを窺わざるを得なかった。なぜというに、その一両年以前から私は親にも許され、自分も決心して、将来は劇作家として身を立てることに定めていたので、他人の話を聴き、新聞の記事に注意して、常に劇界の動静を窺っていた。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University