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点灯夫の話(第一話)――「教養」の来た道(211) 天野雅郎

今年(平成二十八年→2016年)は、日本の近代文学を代表する作家(writer)であり、とりわけ小説家(novelist)であった、夏目漱石(なつめ・そうせき)の没年(大正五年→1916年)から数えて、ちょうど百年目に当たるので、ことによると君も至る所で、いろいろ「漱石没後百年」に纏(まつ)わる話を聴いたり、それと繋がる行事や催しに、ふとした弾(はず=勢)みで参加をしたりしたことが、あったのかも知れないね。......でも、この百年に一度の「漱石フィーバー」(?)は、実は来年(平成二十九年→2017年)も再度、今度は彼の生年(慶應三年→1867年)から数えて、ちょうど百五十年目が巡ってくることになっていて、要するに、この「漱石熱」(fever→febris→熱)は二年の間、君や僕の周囲に熱狂の覚めやらぬ、激しい興奮の渦を巻き起こし続けることになるであろう。

と、このようなことを言っているのは、かなりの「漱石フリーク」のみの話であって、このような「気まぐれ」(freak)や、それが高じた状態の「心酔者」や「熱狂者」や、さらには「逸脱者」や「倒錯者」や、場合によっては「異形(イギョウ)者」(→トッド・ブラウニング『フリークス』)を別にすれば、いたって世間は冷静に、今回の「漱石没後百年」を受け止めているのが、正直な所であろう。それどころか、つい先日も僕は、ある場所で開かれた、漱石関連の集まりに顔を出していて、そこで彼の代表作の『こゝろ』(大正三年→1914年)が話題になり、例の「先生の遺書」が持ち出された折、それを「所詮、文学は文学ですから」(!)と平然と言い放つ研究者に出くわし、空いた口が塞(ふさ)がらず、ダラダラと涎(よだり→よだれ)を垂れ流しそうになったばかりなのである。

まあ、太宰治(だざい・おさむ)の言を俟(ま)つまでもなく、逆に「ワカラヌ奴〔やつ〕ニハ、死ヌマデワカラヌ。シカタノナイコト」(「走ラヌ名馬」)と、遺憾ながら、ほぞを固めざるをえないのも、これまた文学(literature)の、文学たる特徴ではあろうけれども。でも、このようにして君や僕の、文字どおりに文字(letter←littera)を読んだり、書いたりする力(literacy)を養うために、産み出された学問である文学が疎んじられ、その一方で事実偏重の、実学趣味が持て囃(はや=栄)される御時世(ゴジセイ)が来ると、どうやら人間の、人間である理由(reason=理性)や、原因や根拠や土台を考える、いわゆる「人文学」(humanities=「人間性」学→哲学、文芸、歴史、等々)は結果的に、学問や教育の場では風前の灯火(ともしび)のようになるから、おそろしい。

と言う訳で、僕は今回、ふとした成り行きで夏目漱石の、今から105年前(明治四十四年→1911年)の講演の一つ(『道楽と職業』)を、ぜひとも君に紹介したい、と願っているのであるが、それは言うまでもなく、この年の夏(8月)に彼が、前年(明治四十三年→1910年)に見舞われた「修善寺の大患」の療養も兼ねながら、関西一円を一月ばかり、朝日新聞社が主催した講演旅行で回った際の出来事である。と言い出したら、その講演を代表するのが和歌山の、当時の県会議事堂で催された、あの『現代日本の開化』であったことに、すでに君は気が付いてくれているに違いない。この件については、このブログでも僕は「夏目漱石、途中下車」(第103回)を始めとして、もう何回か、あれこれ君に話を聴いて貰(もら)っているので、この場で繰り返す気にはなれないから、あしからず。

なお、この講演旅行自体は、もともと一週間で終わるように企画されており、順調に行けば、漱石自身は四つの会場(明石→和歌山→堺→大阪)で、それぞれの講演(『道楽と職業』→『現代日本の開化』→『中身と形式』→『文藝と道徳』)を済ませてから、そのまま東京に戻る予定であった。が、この旅行自体が負担であったのか、それとも講演自体にストレスが掛かり過ぎたのか、とうとう最後の講演が終了した後、彼は大阪で持病の胃潰瘍を再発し、急遽、入院せざるをえない羽目に陥ってしまう。そして、彼が東京に帰るのは、ようやく月も改まり、秋(9月)も半ばになってからであったし、これ以降、彼は毎年、亡くなるまでの五年間を、ほぼ病魔と闘い続けることになる訳である。ちなみに、そのような病臥の最中に執筆されたのが、和歌山を舞台の一つとした『行人』であった。

さて、このような背景を踏まえた上で、僕は『道楽と職業』と題された、この講演旅行の最初の――要は漱石自身が、まだ決定的に、体調を崩してはいない段階の講演の話を、君に聴いて欲しいのであるが、それは数日前、たまたま僕が今は亡き、直木賞作家の連城三紀彦(れんじょう・みきひこ)が、その受賞作の『恋文』を出版したのと同じ、昭和五十九年(1984年)に刊行した『瓦斯(ガス)灯』(講談社)という短編集を読んでいて、その表題作の「瓦斯灯」という作品に登場している、その名の通りの「点灯夫」という職業に、ふと興味を感じたのが切っ掛けである。とは言っても、その「点灯夫」という語を君が、ひょっとして初耳であった可能性も、ない訳ではなかろうから、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で次に、この語の語釈を掲げておくのが得策であろう。

と思って、さっそく『日本国語大辞典』を引き出すと、そこには久し振りに、例の小栗風葉(おぐり・ふうよう)の名が載っていて、その『戀慕ながし』(明治三十一年→1898年)の用例(「夕暮の町の慌忙(いそがはし)げな間を、点燈夫(テントウフ)は縦横に駈け廻つてゐる)」)が挙げられており、何だか僕は俄(にわか)に旧知の、懐かしい誰かに再会したような気分になってしまった次第。......そう言えば、先刻の連城三紀彦も小栗風葉と同じ、愛知県の出身であったし、この作家は『瓦斯灯』の「あとがき」で本人が述べているように、火と花と、それから雨を多用する作家であり、また、それが好く似合う作家でもあった。例えば、この小説の中で主人公の、峯(みね)と安蔵(やすぞう)が久し振りに再会し、お互いの恋情を伝え合う、その時に突然、降り出した雨のように。

ところで、僕自身が連城三紀彦の、この「瓦斯灯」という作品を繙(ひもと=紐解)いたのは、お察しの通り、君に再度、性懲りもなく(......^^;)ガス灯の話を聴いて欲しいからに、ほかならないけれども、このようにしてガス灯が、日本の近代化や西洋化や、いわゆる「文明開化」の象徴として、その光を放っていた時分、そこに時代に適った、花形の職業として姿を見せたのが「点灯夫」であり、それは『日本国語大辞典』の語釈にもあるように――「明治時代から昭和初期にかけて、街灯・軒灯がガス灯や石油ランプであった頃、それに点火してまわることを仕事とした人」のことであった訳である。が、残念ながら、その華やぎは連城三紀彦の語る、以下のごとき「火」の美しさを、とても具体的に、それでいて幻想的に、君や僕に想い起こさせるものでもあったから、辛い限りである。

 

闇に浮かんでいる火を美しいと思うようになったのは、いつからなのか。〔改行〕はっきりとは憶えていないのですが、子供の頃より数えれば、随分と〔、〕たくさんの火を記憶に残しています。〔中略〕いろいろな火が、いろいろな色と形で記憶の中に燃えています。〔中略〕ある火は〔、〕くっきりと鮮やかに、ある火は闇と区別がつかないほど〔、〕ぼんやりと霞んで、僕の頭の中に浮んでいます。〔改行〕歳月の浸蝕のせいだけでなく、もともと火には、目の前であかあかと燃えあがっている〔、〕その瞬間でさえ、じっと見ていると、少しずつ色を失いながら思い出の闇の中へと遠のいていくような、束の間の幻を追っているような、視線では追いきれない、摑みきれない淋しさがつきまとっているものです。僕に限らず、多くの人が火を美しいと思う一番の理由でしょう。(あとがき)

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